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改憲:国民投票法案が衆院で可決、問われる日本型議会制民主主義のあり方

憲法改正の手続き法である国民投票法案が13日、衆議院を通過した。

臨機“不”応変な意思決定プロセスの限界

最大野党の民主党は、与党の修正案について、TB先にあるように今年1月から譲歩を重ねてきた。しかし譲歩を固辞してきた部分もあった。それが(1)国民投票の対象に憲法改正以外の国政の重要問題を含む点と、(2)白票(棄権票)の取り扱いだった。しかし与党も、断固としてこの二点については譲歩しなかった。ぎりぎりのせめぎあいが続いた結果、与党はついきに強行策に訴えた。これにより、両者の合意は破綻し、民主党も「与党が修正案を提出して採決に踏み切った場合、賛成する」という当初の方針を翻して急遽反対の意向を示した。だが、時既に遅かった。

合意が破綻したとき、数の力の論理が国会を支配した。合意形成至上型民主主義ではなく多数決至上型民主主義の悪い部分が如実に現れた瞬間だった。与野党による合意形成プロセスは破綻し、簡単で単純な多数決の論理が優位に立った。それが、そもそも合意形成が苦手な「日本らしい」政治のやり方なのだろう。しかし、国民のどの程度の割合が、この「日本らしい」多数決至上型民主主義に同意しているのだろうか。

本来、民主主義は、合意形成型か多数決型のいずれかでなければならないものではなく、その混合だったり、ケース・バイ・ケースの適用など、柔軟性のあるものの筈だ。また、憲法の改正など、国政の重要な部分に関わる事項などについては、単なる多数決ではなく、合意形成も混ぜた混合、あるいは合意形成優位の意思決定手法を採るなど、従来とは違った方法をとることも視野に入れて議論されるべきではなかったのか。

つまり、憲法改正という国家にとってきわめて重大な事項を扱う場合において、国会でそのような事項がどのように審議されるか、どのように意思決定がなされるかについても、本来なら別途特別規定が設けられていて然りではないのか。なぜそのような議論はなされなかったのだろうか。憲法改正を国家の一大事と捉えていないからではないだろうか。それとも、ただ発想の転換ということができないのだろうか。

従来の方法で、これまで手続きすら定められていなかったことを審議できるとなぜ考えてしまうのだろう。国内の立法という立法府の本来の機能以上の問題なのに、なぜ従来の機能性のなかで枠にはめて、最終的には数の倫理が支配するとわかっていて無駄な合意形成を重ねたのか。ここには政治的性善説とでもいえる、「お人好しの論理」が働いているように思える。つまり、合意形成が元来から苦手なのに、合意形成という手法に一定の安堵を得て、交渉相手を信用しきってしまうという「お人好しさ」だ。はじめから、数の論理が支配するとわかっているなかで、交渉・合意した内容がもれなく履行されるなどと、そんなことを信じるのはお人好しだけである。ましてシビアな政治の世界での交渉など、履行されないのが当たり前、履行されたら御の字というのが当然持つべきメンタリティーではないのだろうか。

変わるべきは「多数決原理主義

交渉下手な日本人が政治のなかで合意形成を意思決定の手法に用いることに、論理の隔たりがあるのではないだろうか。向き不向き、分をわきまえていれば、そのような無謀かつ無責任な試みはしないものではないのか。よくもまあ、こんなあいまいな土壌で議論というものができるものだ。最終的に数が支配することがわかっている交渉なら、もっとやりようがあるだろうに。これからも「数の論理」が支配する済し崩し的合意形成がこの国を形作っていくのだろう。

それが、日本人に馴染む議会制民主主義のあり方なのか?

この疑問を、新しく設置した投票に反映してみた。従来の「YES/NO」ではなく、「賛成・反対・棄権」の三択にしてみた。本来、国民投票のあるべき姿という皮肉も込めて。日本の民主主義も、変わるべき(進化の)時を迎えているのかもしれない。

時代遅れなのは憲法ではなく、日本の多数決原理主義だろう。