GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

温暖化:実利追求を恥じないエコ文化を目指せ

IPCC議長のパチャウリ博士によれば、インドでの排出量削減の鍵は、先進国の先端技術導入にある。


真のエコライフを始めるインドの人々

昨日のクローズアップ現代で、エコライフに勤しむインドのベンガル地方の村の人々が取り上げられていた。元々電気もガスもない農村で、日本の先端技術を借りてソーラー発電が導入されているのだ。

番組に出演していた専門家は、こうして従来の技術を飛び越えて新しい技術が導入される現象を「リープフロッグ」、「蛙の跳び越え」現象と表現していた。まさに俺が大学時代から、持続可能な社会の構築に必要だと信じていたことだ。

先進国には責任がある。それは過去からの責任であり、未来への責任でもある。過去においては、従来の発展の経過で重工業から軽工業へと移行する過程で大量のエネルギーを消費し環境に負荷をかけてきたことがある。いまの中国がこの段階にある。未来に向けては、過去の失策から学びこれを正しい経験と知識として伝播する責任がある。日本の企業はやっと、この未来への責任に目覚め始めたようである。ところが、これは責任論という観念だけでは動きださない。受入先の思惑と企業の思惑が一致して初めて実現するコラボレーション、協働作業なのである。

受入先には、高いコストを払ってでも新技術を導入するメリットがある。例えば、夜も明かりが確保できることで主婦は内職収入を増やすことができ、子供たちは夜でも勉強が出来るようになり学力が向上する。企業側は、高コストの技術を購入して貰えるだけでなく、その信頼性や有効性をデモンストレーションする格好のモデルとして、村の生活を宣伝できる。つまり、このコラボレーションは実利に繋がるからこそ実現する。双方の利益になるからこそビジネスとなり相応の効果が発揮される。これこそが、環境ビジネスのあるべき姿ではないのか。

観念に留まらない実利を追求したエコ文化

観念論で、やれ「地球にやさしい」だの「人としての責任」だのを持ち出しても、一過性のエコ”ブーム”にしかならず長続きはしない。つまり俄かエコビジネスでは、同じ実利に基づくものであっても持続性は期待できない。「環境性善説とでもいうような、消費者の観念的な健全性や良識に頼るだけでは、真に持続可能なビジネスモデルは構築できないのである。

消費者を具体的なニーズのある顧客として捉え、そのニーズに応える商品やサービスを提供する。従来からのこうした相互補完性のあるビジネスモデルに、環境に関わるからといって聞こえのよいキャッチフレーズや「お得」感という消費者心理の表面を突いた陳腐な戦略で取り組んでも、そこから得られる利益など一過性のもので持続的収益は望めない。持続的でなければ、また新しい商品やサービスを新しいキャッチで売り出すだけだ。だがこれでは事業の先は底が知れている。理念なきビジネスに未来はなく、また理念なき消費は際限なく肥大の一途を辿る。これは、持続可能な関係ではない。そう見えるだけである。

実利を追求することを恥じるという、奥ゆかしさの文化が、日本人のエコ認識をねじ曲げてしまっている。持続可能なビジネスモデルを追求し協働することは、企業として、そして人として、反社会的・反エコな行動ではなく、むしろ明確な理念に裏付けられた立派な社会活動なのであることを、企業も消費者も自覚し、欺まんに満ちた観念に振り回される現代のエコブーム風潮から脱却すべきなのではないだろうか。


(通勤途中に携帯で執筆して転記・編集)