GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

転載コラム:(下)戦後の日本をどう思うか

普通の国”を超える新しい日本

普通の国”に求められる資質として日本人が勝手に解釈している理想像は、独自の軍隊を持ち、他国に舐められることなく堂々と外交を展開し、安全保障上の国際貢献も難なくこなし、国際社会の責任ある一員であり続けるということらしい。だがそんなビジョンを今更抱いてどうする。軍隊を持っていないだけで、日本は他国に舐められることになっているのか。軍隊というモノがないことで日本は“普通の国”の規格から外れる三流国家扱いされているのか。否、違うだろう。

何かモノを持ちさえすれば、周りと対等になれる、普通になれるという考えは、まるで小学校であるものが流行りだすとそれを持っていて初めて対等だと思われたり仲間だと思われたりするという認識に近い幼稚さがある。小学校ではそうかもしれないが、大人が運営する国際社会ではそうはいかないからだ。それは、モノの使い方を誤らないことが前提になるということだ。

軍隊は、国家を構成する必須要件ではない。したがって軍隊がないことで国家としての要件を満たさないわけではない。日本はそうして、軍隊放棄を謳いながら国家としての体を維持することができた。そして、世界に類を見ない急成長を遂げ、再び歴史の表舞台に顔を出し始めたわけだ。これは軍隊なき国家である日本が成し遂げた偉業だ。つまり軍隊というモノがなくても、日本はここまでやってくることができた。

ここで、多くの人が「それは日米安保の傘に守られてきたからだ」というだろう。だが、世界にはアメリカとの軍事同盟によって、自国が軍を持たずともアメリカによって守られたきた国が実は沢山ある。そのほとんどはアメリカの庭の中南米に集中しているが、小規模な軍隊を持って後は駐在米軍によって守ってもらっている国はアジアにもまだある。さて、同じ条件とは言いがたいが、自ら軍隊を放棄した上でアメリカに守ってもらっている国で、日本ほどの成長を遂げた国が他にあるか?ない。つまり日本には、ただアメリカに守ってもらっていると慢心せずに国家発展の努力をし続けてきた実績があるからこそ、いまの繁栄があるわけである。これは誇るべき日本の功績だ。同様の発展をいま現在続けているのは、韓国くらいのものだろう。だがシンガポール台湾、香港とともにアジアの新興経済発展国といわれた日は久しくその経済成長率は隣国の中国に完全に追い抜かれている。まあ、かつての日本のようなものかもしれない。それでも、日本ほど国際社会における確固たるポジションを築けてはいない。

日本は特異な発展を遂げてきた国だ。自前の軍隊がなくともここまでこれたのである。それで外交的に「表向きは」舐められようとも、対外的な関係で国民が実害を被ったことなどほとんどない。むしろこれまで日本をうまく運営してきた恩恵により国民は各国で手厚い保護を受けている。反日デモなど、ごくごくマイナーな出来事である。それが全世界的に起きているわけでも、アジア全域で起きているわけでもない。反日を国是としている国など実際には皆無で、日本の存在なしにどの国も独力で国際社会を渡り歩けるわけではない。つまり、日本は自前の軍隊を持たなくとも各国の生命線を握るほどの影響力を持つ大国なのである。

そんな“大国”日本が、なぜいまさら「普通の国」などにならなければならない?

俺はその発想のほうが理解に苦しむ。日本は世界で対等に渡り合っていないのか?逆ではないのか。日本は初めて、軍隊という後ろ盾なしに世界と渡り合うことができるという可能性を見せつけた国なのではないのか?国際社会の荒波を越えるために、必ずしも軍事力は必要でないことを、日本は世界の歴史に知らしめたのではないのか?その日本がなぜいまさら、旧態依然としたほかの先進国の真似事をする必要があるのだ。日本はその“先”にいけるはずだ。次のステップに進めるはずだ。それには軍隊の保有もオプションとして含まれるが、そこで終わらないところに日本の先見の明があるはずだ。つまり、軍隊というモノの使い方を変えるのである。

俺は日本が実はどのくらいの偉業を成し遂げてた国なのかを国民が正しく理解できれば、この次のステップに進む原動力を持てると信じている。そのためにも、流行の兆しを見せている懐古主義や自虐的歴史観の訂正といった“退行的”な動きに歯止めをかけたいと思っている。過去を向いている限りは前進はない。前を向かなければ未来の日本は見えてこないのだ。

“普通の国”を越えた日本の姿、是非見てみたいじゃないか。