GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

映画:ルワンダの涙(BEYOND THE GATES)―2005年

とても娯楽に分類できるものではなかたったので、「思想」に分類した。

ルワンダの悲劇は、「保護する責任」(Responsibility to Protect=R2P)という新しい思想を生み出す土台となったからだ。しかも俺は今日、日本の国会を代表する人間として、丸一日そのことを論じる会議に出席したばかり。

そのオープン・セッションの締めくくりとして、会議のプログラムに載っていたのが『Beyond the Gates』というタイトルの映画の先行上映会の予定だった。ルワンダの映画ということで、もしかして日本で先行上映されたという『ルワンダの涙』か?という思いが頭をよぎってはいた。しかし、まさか出張先のアメリカで、日本に遅れて洋画である『ルワンダの涙(米題:Beyond the Gates)』を見ることになるとは思わなかった。しかも娯楽ではない。会議のプログラムの一環としてだ。

終日、朝から丸一日かけて「保護する責任」について論じ、その展望・問題点・現実的妥協点に議論を掘り進めながら、「ルワンダの悲劇を繰り返してはならない」という檄を繰り返し聞き、どうにか頭の中で一日の報告をまとめようと思っているところに、強烈な一撃が加えられた。頭が真っ白になった。涙が、止まらなかった。

UCバークレー校の正式主催イベントとあって、翌日に全米プレミアを控えたこの映画のプロモーションのために、共同制作者のデヴィッド・ベルトン(David Belton)本人が自ら映画の案内役を務めた。さらに上映後、30分に及ぶ質疑応答が行われ、ベルトン氏はすべての質問に真摯かつ丁寧に答えていた。

正直、質疑応答が必要な内容の映画ではないと思った。終日を議論に費やし、決意新たに日本でR2Pの概念を広めようと考えている矢先に、ダメ押しのようにこの映画をぶつけられたのである。正直、いっぱいいっぱいだった。すでに『ホテル・ルワンダ』を見ていたからこそ、尚更だった。

誰が描こうと、真実を描けばそこに描かれる真実はすべて最初の映像と同一になる。つまり、映画の展開の先が読めてしまい、その先にあるであろう悲劇を想像するだけで戦慄し、硬直し、涙してしまっていた。2人の主人公がどのように非力で、どこで絶望し、そしてどういう結末を迎えるか─先行した『ホテル・ルワンダ』が史実に忠実でありその中での人々の葛藤がリアルに描き出されていたからこそ、この映画でも主人公らが直面する葛藤やその顛末、結末に至るまでが十分に想像できた。おかげで、まったく見当違いの場面で俺は泣き始めてしまいそのまま終始涙が止まらない状態に悩まされた。

折角の機会だったが、質疑応答の時点ではもう放心状態だった。

いまこうして、かろうじて言葉に残せてるのは、バークレーの寒空が少し自分の冷静さを取り戻すのに一役買ってくれたからだろう。映画館からホテルまでの徒歩20分の道のりを、ゆっくりと、知り合って意気投合した元国連の専門家と、第二のルワンダとなりつつあるスーダンの悲劇をどう止めるか、何ができるか、何をすべきか、議論しながら歩いて帰った。彼は俺と議員が進めようとしている構想を支持してくれた。そして俺がスーダンを第二のルワンダとしないための方策を述べている間も、うんうんとうなずきながら聞いてくれた。元国連高官の彼は、退官したとはいえ、この分野においてはまさに専門家。その彼が、R2Pを勉強し始めたばかりの若輩の俺の考えに、いちいち頷き、コメントしてくれる。

第二のルワンダはあってはならないし、それを起こしてしまったら人類はもう責任を持って人権の保護や人命の尊重を訴える拠り所を失う。イラクでの人権侵害、ミャンマーでの人権侵害、中国での人権侵害、コートジボワールでの人権侵害、何を訴えようと、しょせんもう1つの悲劇を看過してしまい、行動を起こさなかったら、発言する力も権利も失う。他国の人権侵害を糾弾している場合ではない。目前にある、急迫性のある脅威に対して行動を起こす有効な手立てがないのであれば、生半可に人権擁護など訴えずに、永久に沈黙するべきなのだ。それが偽善や欺瞞を封じ込める唯一の方法である。行動することによってしか、過去の無行動を贖うことなどできないのだ。

しかしはたと自分の国をふり返る。
自分の周辺をふり返る。
そして自分自身をふり返る。

何を行動したというのだ。

この倫理上の葛藤は、『保護する責任』という新たな思想に触れ、そこに深く踏み込んだものほど、さらに大きいのだろう。ホテルへの道中、新たな同志は食事も飲食もする気が起きないと、俺と同じ胸中を語っていた。

「知る者」の責任は重い。
しかしその重責ゆえ、「知る者」の立場は辛い。

俺はこれから、1人の人間として、「保護する責任」の重責を負うものとして、葛藤し続けるのだろう。

2007.03.14 23:40

バークレーにて