GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

戦後:東京裁判の「功「と「罪」ログ

東京裁判の歴史的功罪について、当ブログの言霊書庫にて、musyu2005氏を相手に行われた議論を以下に再編してまとめる。 (ワク内がmusyu20005氏のコメント)

しかし、パール判事の言うとおり、
勝者が敗者を裁くことは、将来の戦争を禁止する役には立たない。

つまり、これは、
戦争に負けると、ひどい目に合うという教訓しかもたらさない。
戦争を行うものは、負ける気で始めるものはいない。
したがって、戦争を始めるものは、その教訓を我がこととは考えないので、将来の戦争を禁止する役には立たない。

東京裁判は、単に勝者が敗者に対し、裁判の名を借りて復讐を行っただけに過ぎず、
けっして、戦争を国際法によって裁いたのではなかった。

その考え方は、やや短絡的過ぎると思います。

かつての日本だって勝てる戦争を挑んでいないことを、大本営が実は判っていたことはすでに周知のことです。イラクの故フセイン元大統領も、アメリカに一矢を報いるつもりで必死の抵抗を試みましたが、「勝てる」とは思っていませんでした。しかし、自国の都合で使い捨てされることにプライドを踏み躙られ、敢えて反旗を翻したのだと思います。「勝つ」ことばかりが、国家を戦争に駆り立てるわけではないでしょう。日本だって、ハルノートを突きつけられなければ、できればアメリカとことを構えたくはなかったでしょう。それは、開戦直前の外交交渉の記録からも読み取れます。

東京裁判は、まだ国際法の黎明期に行われたものですから、パール判事やレーリング判事が望むように厳格な国際法の適用で戦争が裁かれたわけではなかった。しかし、だからこそ、戦後の世界においてその反省から、徐々に「勝者の裁判」から遠ざかるようになってきたのです。その現在の最新の形が、国際刑事裁判所(ICC)でしょう。パール判事らが生きていたら、喜んでICCの判事になってくれたと思いますよ。

あなたがレスで主張したいことは

(1)戦争を負ける気で始める指導者も存在する。
したがって、戦争に負けると、ひどい目に合うという教訓をもたらす、勝者が敗者を裁く行為にも意味がある。

(2)東京裁判に対する反省の上に、現在の国際刑事裁判所(ICC)があるのだから、東京裁判は意味があった。

ということでしょうか?

■国家の尊厳を賭けた戦争

「勝てない」と思いながらも、民族的な誇りから戦争に臨み一矢報わんとすることと、「負ける」と知りながらも恣意的目的のために戦争に臨むことって、別なんじゃないでしょうか。俺は、日本は前者の理由で“無謀な戦い”を挑み、敗北したのだと思っています。しかしそれは、“かつての日本”です。

今の日本が、例えば自衛隊を軍隊化してそれを増強したとして、アメリカや中国に対して正面から宣戦布告して戦争を挑もうとするでしょうか。しないでしょう。近年、アメリカに真っ向から戦争を挑んだり、止む得なく戦争に突入してしまったのは、前者としてはフセイン、後者にはアフガンの旧タリバン政権しかいないでしょう。それくらい、近代において無謀な戦争を挑むことの無意味さは国際常識となっているということだと思います。たとえば、あの北でさえ、アメリカに対して正面から戦争に臨むような態度は示していません。むしろ逆です。

■反面教師となった一連の軍事裁判

東京裁判ニュルンベルク裁判などの一連の軍事裁判が、戦後処理として、勝者が敗者を裁く一方的な裁判だったため、法的根拠に欠けていたものだったことは事実だと思います。つまり、本来裁判としての正当性はない。しかし、これらの軍事裁判は1つの“前例”を作りました。

当時は事後法でしたが、その後はこれから発展して旧ユーゴやルワンダ国際刑事裁判所規程、そしてICC規程があり、前者の二つの裁判所は時間的管轄が明記されており、後者のICC規程では不訴求項がちゃんと設けられています。つまり、戦後の一連の軍事裁判の問題点を改善したものが出来上がっています。

事後法によって、ろくな法的根拠もないのに戦犯を裁いた一連の軍事裁判には二つの功罪がありました。「罪」としては、事後法による不当な裁判を国際社会が既成事実として認めてしまったこと。「功」としては、そのことの反省から、近代稀に見る法的正当性を備えた国際刑事裁判機関の設置に貢献したということです。

最後に、前時代的な考え方としては、「勝者による裁判」というのは力の誇示、みせしめとしては有効な手段だったのかもしれません。しかし、旧ユーゴでのNATO空爆を人道上の問題として不問としたことに対する国際社会の反発など、「勝者による裁判」はますますその正当性を失ってきています。そうした、国連安保理が設置する「勝者の裁判」の為の臨時裁判所の代替案として実現したのが、ICCなんです。

つまり、「勝者による裁判」を既成事実化し正当化した戦後一連の軍事裁判は、“反面教師”となったのです。

まだまだ、国際社会には大国のエゴと力を背景にした不条理が蔓延しています。しかし、そのような旧態依然とした流れは、その権化であるアメリカの力が国際社会の反感を強め、その対抗策として新たな枠組みが模索されている現代において、徐々に変わってきています。

東京裁判ニュルンベルク裁判はいずれも、「勝者による裁判」でした。しかし、人類社会はその功罪から確実に学習しているんです。

犯罪に対して裁判を用い、刑罰を科する手段は、戦争に敗れたものに対してのみ適用されうるといった段階に国際機構がとどまるかぎり、刑事責任の観念を導入しても、とうてい制止的と予防的の効果を期待しうるものではない。

現在は、「戦争に敗れたものに対してのみ適用されうるといった段階に」留まっていません。現に、ICCは既にアフリカ紛争地域での暴力に対する抑止効果を発揮しています。これも「勝者の裁判」ではない正当性を持つ同法廷に対する純粋な訴追の恐怖からくるものだと思われます。

2008.08.21現在(了)