GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

映画:愛についてのキンゼイ・レポート(KINSEY)―2004年

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劇場で観るにはちょっと勇気が要った「キンゼイ・レポート」をやっと、恋人と一緒に観ることができた。彼女は、一部の映像にさすがにastound (仰天)させられていたようであり、目を背けてしまうことすらあった。だが俺は違うことを感じていた。

半世紀も前に作られたこの「レポート」は、1人の生物学博士の「性」に対する並ならぬ想いが込められた博士の生涯のライフワークの結晶である。半世紀前のアメリカの世情では、潔癖と異常性愛(当時の価値観で)が反目しながら存在(“共存”ではない)していた。キンゼイの性に対する斬新─というより革命的?─アプローチは、そうした世情の中で、異常性愛者や自分の性に疑問を持っている人たちに、老若男女の隔たりなく広く受け入れられる一方で、保守的で潔癖な、「性の解放」を望まない人々からは疎ましがられ、社会的攻撃の対象となっていった。

その中で誰より、それらの異なる価値観を持つ人々の狭間で苦しみ続けていったのが、キンゼイその人だった。そのキンゼイを最後まで支え続けたのが、妻の“マック”。彼の価値観を理解し、支え続けること自体、当時の支配的な価値観を思えばそれこそ並ならぬことだたっただろう。それは「内助の功」などという奥ゆかしいものではなかった。社会から好奇や蔑みの目で見られる夫を信じ、頼り、表立って支え続けていったのだから、研究をやり遂げようとする夫の「鉄の意志」もさることながら、その鉄の意志をさらに包み込むようにサポートする妻の強靭さもまた、人間の驚異と思えるくらい凄まじいものだった。

なのに映画の中ではまったく語られないテーマがあった。それが

愛があるから濡れるのじゃない。愛があるから快感なのではない。
愛があるから続けたくなるのではなくて、愛があるから色々試してみたくなるわけでもない。

キンゼイは最後にいう、

「愛だけは、誰にもわからん」─と

彼自身が支えられてきたものは愛。
彼自身がここまでこれたのも、周囲の愛あってこそ。

ところが、彼自身が「性」を愉しむのは、愛があってのことではない。
そこに「性への欲求」があるから、彼は性の営みに没頭する。

それは異性愛に限らず、あらゆる「性愛」行為に対して、冷たいまでに一貫している。

彼を支え続けてきた彼を愛する人たちでさえ、彼の「性の営み」に対する執着ぶりと、ときに非人間的にも思える、周囲の人間をまるで「実験対象」のごとく見てしまう部分に、さすがに距離を置いてしまう。そして時には強く反発し、罵るときすらある。

ふと気付く。

愛とは、なにも優しさや慈しみに満ちただけのものではない。
愛情と憎悪は表裏一体というが、それともまた違う。

愛とは、“すべて”なのではないか。そう思った。

綺麗ごとや、いわゆる“純愛”的な献身や、苦難を一緒に乗り越える美しさが
愛の本当の姿というわけではない。愛にも様々な側面があり、それこそ憎悪すら
愛が持つ顔の1つに過ぎないのかもしれない。なぜなら愛とは、不完全で、ひ弱で、
支え合わなければ生きてゆけない人間そのものを表した言葉なのかもしれないからだ。

人は、愛なしでは生きてゆけない─なるほど、真理かもしれない。


なるほど、原題は単に『KINSEY』だが、前知識のない人のための説明的なこのタイトル
なかなか秀逸である。実際、愛について考えさせられた。いい作品である。