特別コラム:(後編)引退を表明した中田に捧ぐ
29にして1つの旅を終えたと宣言できるのは、彼なりに20年間という月日を1つのことに向けて突っ走ってきたという自負と実感があるからだろう。たしかに、1つのことを20年続けてきてまだ30代にもなっていないというのは、「走りきった」感があるのだろう。俺には、まだ理解できない感覚だ。やっと1つの業界で10年の月日が流れ、それなりのプロ意識も芽生え始めたところで、またその世界の果てを見た気にはなれない。中田は、その果てを見てしまったようで、もう引き返せなくなったみたいだ。
だが本当にそうだろうか。
1つの世界に身を置くのに、20年という月日はたしかに長い時間だ。あらゆるものを経験した気になるし、知らないことがないような気にもなってしまう。だが職人などの世界では、20年でやっと一人前で、そこから1人立ちが始まるという。そんな、世界も実際にある。自分のいる世界が、20年の月日で掌握できるものだと、なぜ確信できるんだろう。3、4回の挑戦で「すべての結果が出た」と言い切れるほど、彼は浅い世界の住人だったんだろうか?そして、彼は誰よりもサッカーを理解し、サッカーのすべてを見てきたのだろうか?
少なくとも選手として、彼はすべてを出し切っていない。
人と比べられるのは嫌だろうが、ポルトガルのフィーゴも、フランスのジダンも、今大会引退を決めてはいるがそれ相応の年齢であり、中田が旅に見切りをつけた29の頃からさらに4年間この世界に身を置き続け、いままさに最後の輝きを見せている。
やれることがあれば何も惜しまず全力を賭ける中田
自分に妥協を許さず、常に自分を厳しい状況に置き続けることを択ぶ中田
誰にも捉われない自分基準を確立していて、
他の同情や哀れみなど寄せ付けない孤高の中田
自分に妥協を許さず、常に自分を厳しい状況に置き続けることを択ぶ中田
誰にも捉われない自分基準を確立していて、
他の同情や哀れみなど寄せ付けない孤高の中田
自分に厳しい生き方を率先して択ぶ生き様に共感を覚える者だからこそ、
今一度求めたい。去ることを択ぶものに言葉の花道はいらない。
今一度求めたい。去ることを択ぶものに言葉の花道はいらない。
俺もこの言葉を自分への訓戒とする。