GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

アニメ:(後編)ゲド戦記(Tales From EarthSea)─2006年

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注:以下、ネタバレだらけ。

本作のスケールが小さいことには前編で触れたが、どう小さいのかを説明していなかった。それは前編に挙げたような親子の確執が原因により、縮小を余儀なくされたことだったのかもしれないが、俺は原作者が宮崎フリークだとして今回のadaptation(脚色)を賞賛したとしても、長い物語(戦記=war chronicle=年代記)の一部としては、あまりにも物語が個人にフォーカスしすぎていて、ゲドの長い戦いの歴史の中で今回の戦いがどのような意味を持ったのかがまったく伝わらなかった。つまり、時代の背景情報が少なすぎるし、それがまったく描かれていない。

作品を見ていてわかったゲドの旅の目的は、「世界の均衡を崩すものを発見して更生すること」のようだが、大賢人とまでいわれる割に力が弱い。そこを常人であるはずの少年アレンに救われるのでは一体何が「ゲド戦記」なのか、ゲドが長きに渡って立ち向かっているその「均衡を崩している者」とは一体何なのか。これがまったく伝わってこなかった。

今回の作品の悪役は、強大な力を持った魔女(?)ひとりで、しかもその魔女の力といえば『千と千尋』でいう“カオナシ”程度の瞬発的な力でしかなく、しかもその実体は年老いたひ弱な、生に執着した弱きものでしかない。こうした「弱い心」が、均衡を崩す源となっている─つまり均衡を崩しているのは一部のひ弱な人間たちであるというのが、この話の筋なのか。だとしたら尚更、スケールが小さすぎるし、ゲドの「戦史」というのは結局、そういう「弱い人間」たちを相手にずっと戦ってきた歴史ということになる。そんなにスケールの小さな話なのか?人間と世界を分かつもう一種類の生物、ドラゴンの存在はどうなっているんだ?

冒頭では、なぜかドラゴン同士が戦っている姿が人間界で目撃される。その戦いが何で起きたか、なぜ彼らが人間界に紛れ込んだのかも謎のまま終わる。「均衡が崩れる」の描写が、イコール「ドラゴンが人間界に現れる」という単純明快なものだったということならば、悪いが単純すぎる。街の人々が麻薬のようなものに溺れ、都会の中のような喧騒の中で自分を失っている─そんな現代社会にも通じた現象が、「世界の均衡が壊れる」という大きな現象によって引き起こされているという解釈には無理がありすぎるし人間を単純化しすぎている。ここにも、スケール感の小ささを感じた。つまり、構想の輪郭がぼやけていて物語に秘められる重厚なテーマというものがまったく感じられないのだ。端的に、もっとも粗暴な言い方をしてしまえば、

ゲド戦記』は『千と千尋』の男の子バージョンである。


テーマは自分探しと自分越え。そこに父殺しのシーンを入れることで、親父越えの要素が追加されている。というより、父殺しがなくては自分が探しや自分越えをできない設定になっている。要は、主人公アレンのエディプス・コンプレックス(母親への恋愛感情がないのでちょっと違うが)解消物語であり、

決してゲドの“戦記”ではない。


俺が素朴な問として思ったのは、こんな単純スケールの小さいストーリーなのになんで『トトロ』よりも長いんだということだった。あの長さならもっと重厚なストーリーにできたはず。もっと歴史的背景を説明するシーンを導入して、『ロード・オブ・ザ・リング』のように別の種族同士が一つの世界をどう分かつているのか、どうやって均衡が保たれ、それを崩すことができるのか、その仕組みの説明も必要だった。すべてが輪郭がぼやけたまま、いま上映中の『ブレイブ・ストーリー』のような、お決まりの「数々の出会い・別れを経験して主人公の男の子が強くたくましい人間へと成長する物語」となんら変わらない。しかも、敵自身がそれほど強大な存在でもなく、自身の弱さによってちょっと力の使い方を間違えただけの小者に過ぎなかった。

一体この物語の面白みはどこにあったのだ?


俺には最後までそれがわからなかった。製作時間8か月。
でも作品時間は115分もあった。

その中でこれだけ'伝えられることが少ない作品は珍しいと思う。