GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

《勝ち》《負け》二元論社会(1)

近年の日本社会は分断されている。

「賛成・反対」「白・黒」「するか・しないか」「関わるか・関わらないか」「認めるか・認めないか」そして、「勝ち組か・負け組か」。

非常にわかりやすく、社会がまっぷたつに割れている。

自分の立場を決めるのは簡単なことで、“与えられた”選択肢から立場を選びとるだけで済む。そこには、二者択一の選択しかなく、選択を真剣に捉えないような人間なら、目を瞑ったままでも“選ぶ”ことができる。だが、果たしてこれは純粋に“選択”といえる作業なのだろうか。

選択肢を与えられる社会というのはつまり、それ以外の選択肢を許容しない社会でもある。つまり、思考の幅は狭まるがそれを収斂された選択として善しとすることで、他の選択を排除するという考え方である。「思考の最大公約数」とでもいうべき考え方である。

だが、そう見せないカラクリが実はある。

選択肢が狭まっていることには“理由”がある。それは論理的な帰結で、「この選択肢しかない」という風に提示されることで主に定められる。では、論理的帰結の道筋は、一体どのくらい“論理的”なのだろうか。一番この落とし穴にはまりやすいのが倫理的な選択だ。

倫理は、善悪とイコールで考えられることが多い。すなわち、善悪の選択を行うことが倫理であるという考え方だ。しかしそもそも、学問として学校で教えられることが、善悪の二元論でしか成り立たないということがおかしい。よく「倫理的に問題がある」などと形容される事象は、実はもっと複雑で、単純な善悪の判断では解釈できないことが多い。それは、倫理を決める人間の思考が複雑であるからで、だからこそ義務教育課程の教科としても立派に成立する。誰もがわかることなら、「教わる」必要はない。

しかし社会に出て大人になると、倫理の授業なんてまず思い出さない。大人になってからの判断基準は、教わったことの結果でしかない。つまり、倫理的な葛藤のプロセスではなく、そのリザルトとしての善悪の回答が、大人になってからの判断基準になっている。ここですでに、「思考する」というプロセスが抜け落ち、与えられた選択肢から模範的な回答を出せば、それが「正解」であるという図式ができあがる。「正解」であれば、それは正しい選択なのだと、思考をめぐらせることもなく、簡単に善悪の二元論に落ち着く。

たとえば、困っている人を助けるか・助けないかという選択肢があるとする。

いや、自分自身がここで「罠」を張ってどうする。訂正する。

たとえば、困っている人がいるとする。

この場合、その人にたいして(1)行動を起こすか・起こさないか、(2)行動を起こすとしてどのくらいまで行動するか、(3)行動を起こさないとしてその意思をどのように示すか、(4)行動を起こす場合・起こさない場合の頭の中でのシミュレーションなど、他になんの選択肢があるか、本来なら様々な思考が交錯するはずである。

さらに、(A)そのときの自分の状況はどうであるか、(B)そのときの相手の状況がどうであるか、(C)そのときの周りの状況はどうか、など選択する状況についての情報が在れば、選択はより複雑なプロセスを経て導かれるものとなる。と、同時に、その選択はより練り上げられたものとなる。様々なこと考慮したから、ベストな選択をしたはずだと、“思い込みたく”なる。だがこれもまた、罠だったりする。

(通勤途中に書いたので今日はここまで)