GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

Twitlog:二十四の呟き~140x24の呟き~(2010.02.13)

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子供の「創造力」の衰退について

プロローグ
世界連邦の運動の中でも、子供に「世界連邦」をテーマに作文を作ってもらうコンクールがあるのだが、どうも最近の子供の「創造力」というのは既存のアニメやゲームの世界を出きらないうような感じがする。でもちょっと考えてみると合点がいった。それもその筈なのだ。

(1)最近の映画やゲームの世界はおよそ人の想像を超えるものを造り上げている。そこには、子供の頃に自分達が思い描いたものが具現化された世界が広がっている。つまり大人が作るものが子供達の創造力を先取りしているのだ。大人にとってはたまらないファンタジーの世界だが同時に子供達の夢を奪っている。
(2)いや子供達の創作能力が奪われている、と言ったほうが正しいのかもしれない。これはいわばクリエイターといわれる大人達の功罪であって、大人も子供も愉しめる「想像を超えた世界」を造り上げるという功績を残す一方で、子供達からそれ以上のことを創造する機会を奪うという罪深き行為であるという事。
(3)これは自分の近視眼的な目で観たことで、都会の子供に限られることなのかもしれない。考えてみれば、子供と接する機会は随分減った。最近姪っ子がある行動に出たと聞いたときも度肝を抜かれたものだった。それは、確かに大人の想像をはるかに超えていた。奇抜で突拍子もないこと。でも新鮮なこと。
(4)あるゲームで、姪っ子のお父さんつまり俺の叔父がボロ勝ちした。そしたら姪っ子は真っ赤になって怒りに震え、紙切れに猛烈な勢いで何かを書いて叔父の目の前に叩きつけたという。そこに書かれていた言葉は「YOU ARE HATED」―いわば絶縁状だ。こういうこと、子供はよくするのかもしれない。
(5)でも姪っ子のやり方は、なんというかスタイリッシュだったらしい。まるで小切手に金額を書きなぐって渡すかのよう華麗な動作で「絶縁状」を渡された当のパパ(=叔父)はというと放心状態。愛娘に嫌われたショックなのか、それともその華麗な動作に見とれたのか(親ばか?)、でもそれはほんの一瞬だけ
(6)次の一瞬、正に破顔一笑。叔父はなんとも微笑ましい顔をして苦笑したそうだ。そのときの表情を、当の叔父が再現して見せてくれた。これは全部叔父から伝え聞いた話だ。近視眼的なことを書いているので最も身近なところで例を出してみたが、7歳になったばかりの姪の行動は十分に創造的だった。
(7)姪はカリフォルニアのバークレーに住むハーフ。日本に来るのは1年に1回あるかないかで、殆どを英語環境で過ごしアニメも好きだがカートゥーンも観る。一番好きなのはトムとジェリーだった。日本のアニメではセーラームーンプリキュアが現地でも人気らしく、日本に来ればプリキュアグッズを揃える。
(8)去年まで姪は喋るときのメインは日本語で英語がサブだった。今年はそれが完全に入れ替わっていた。 ほんの数カ月前姪はこんな手紙を送ってくれた。そんな姪が一年後、叔父に「I HATE YOU」の疑似絶縁状を叩きつけてる。なんとも驚く。
(9)よし、なんとなく見えてきた―。姪は俺にとって最も身近な子供。姪を見てると、その創造力の豊かさにいつも驚かされている。だが姪とそう歳の変わらない子供たちの日本語の作文を読んでいると、いかに嫌々書かされているかというのがひしひしと伝わってくる。
(10)だがちょっと振り返ってみれば、俺もある一定の年齢まで決して作文好きではなかった事を思いだす。いまでこそ「呟きが止まらない」状態でこうして呟きまくっているが、自分の国語力に自信がないためか小学1年の頃はたしかに作文が嫌いだったような気がする。だとしてもだ。
(11)この子供たちは小3。日本語の小学校ではたしか一番漢字を習う学年でなかったっけ。1年生とは訳が違う。にも関わらず漢字の量が異様に少ない。そして表現力に乏しく、さらに既存のアニメやゲームからのものばかりを「完全創作」のはずの物語に登場させる。よほどやる気ナッシングなのか。
(12)それとも創造力に欠けているのか―。作文を読み進めると、今度はスーパーリアルな描写で現実のいじめを描いたとしか思えない作品も出てくる。この両極しかないのか。やる気ナッシングなくらい創作意欲ゼロか、リアルな話をフィクションに見立てて声なき声を絞り出す―それ位しか表現方法がないのか?
(13)実はもう1つの極もある。ぶっとんだ創造力で大人を思わずほほえますような想像力豊かな表現。でも圧倒的に少数。つまり極にすらなり得ない。かすんで消えてしまうような中間層に想像力の豊かな子供たちがいる。これは、ある小学生たちの作文を70人分ほど読んで得た感想だ。たった1つの学校。
(14)同じ学年の幾つかのクラスのもので、統計データとしてはまったく不適当。だから、自分の感触でしか書けない。だが敢えて書く。この子供達は、どうしてこんなに苦しんで言葉を絞り出さないといけない―つまり、言葉が嫌いなんだろう。この子供たちはなぜ作文が嫌いで、なぜ好きになれないんだろう。
(15)それは、言葉以外に表現するメディアがすでにふんだんにあるからではないだろうか。それは、自分たちの考えていることが何世代前の大人によって実現してしまっていて、それ以上のものを創造することに価値を見いだせないからではないだろうか。つまり創造の機会が失われてしまっているのではないか。
(16)教育のせいにもできる。親のせいにもできる。環境のせいにもできる。時代のせいにもできる。そして、クリエイターたちのせいにもできる。けれどもおかしい。もっと大事な何かが欠けている。考えてみよう。自分が子供のときに想像しかできなかった物で今当たり前に使っているものが幾らでもあるだろう。
(17)携帯だってそうだ。ノートPCだってそう。Twitterなんてナンダソレの世界。ポケベルしか知らない時代、携帯はまるで軍用通信機のサイズだった。モノがない時代、モノがまだいまほど便利じゃない時代。モノが便利になる時代を想像するのは容易かった。いまの延長というものが想像できた。
(18)そして何よりハングリーであった。まだまだ世の中便利になる筈!と信じて、科学研究に打ち込んだり、開発に精を出したり、想像をめぐらして自分なりに未来図を描いたりした。少年の頃に「ムウ」を読んだり「ニュートン」を読んだりりて科学が進むと何ができるようになるか夢を馳せていた。
(19)(すみません、辛抱強く読んでくださってる方。なんだか止まらなくて・・・もう少しで終息しそうです。。)
(20)いまの子供たちに、自分の前を走った世代が作りだし想像する以上の世界を想像する「創造の幅」というものは十分に与えられているのだろうか。実際に与えた例を考えてみるとする。アメリカの世界連邦運動の支部が、日本の支部とは違った形で子供達にアプローチし始めた。Flashアニメコンテストだ。
(21)Flashは専門の比較的高価なツールが必要で習得にも(俺的には)一定の時間がかかるシロモノだが、マスターするとそこには豊富な表現手法の世界が広がる。このツールと機会を子供達に与えてみたら、作文とは違うものが見えてきた。「創造の幅」が広まったのだ。
(22)表現手法が多様化する中で、作文という文字を使った表現方法を子供の創造力の指標とするのは誤り。その事にはいま呟きながら気付いた。しかし何か、140文字約x20回呟いても言い表し切れないものがある。それがやっと他の人々の呟きと相俟っておぼろげに見えてきた。「創造する機会と手段」だ。
(23)「なんだ、そんなことか。」ここまで読み進めてきた人は思うかも知れない。でもこれは自分の中のおぼろげな姿を言葉という二次元的表現手段で表してみただけのこと。つまり俺にも「創造する機会と手段」が必要なのかもしれない。それ位、言い表し切れないもどかさを自分の中でも感じている。ラストへ
(24)けれども、表現したかったのだ。ここで。いま思っていることを精一杯自分の言葉で。それは純粋に、子供たちの、そして自分が作るであろう子供たちの行く末を憂いてのこと。一人の大人として、子供達によりよい未来を残したい。その為に出来ることは何かを模索して、呟いてみた。ご精読感謝。(完)
2010.02.23 22:30~01:00位の間に呟いた内容

エピローグ
呟きにエピローグはない!

※写真は、ネット上で知り合った友人が自分で撮影したもの。前デスクトップを飾っていました。