GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

Twitlog:次期国家首班像を考える十八の呟き(2010.08.03)

「日本国民が求める国家首班像」について考えてみた


発端は、指導者を単純に「理想派」「現実派」とカテゴライズすることへの抵抗から行った1通のツイートにあった。

http://ow.ly/2k9dh ←理想を追う政治家、現実の中で政策実現を目指す政治家がいる―という観察がある。でもそれぞれ、目的を持ちその為に政治という実現手段を要する点では同じ。では何が違うのか。おそらく「起点」だろう。佐藤優氏に指摘にいう「目線」に当たるがちょっと違う。

ここから「現実派」と「理想派」政治家の差異を細かく区別しようと試みているうちに、あるツイートで、政治家として持つべき「視座」というものがクローズアップされてきた。そして、自分の考えとしてこう呟いた。

いち国民の視点に戻ったいま、国民が菅総理を支持できない漠然とした理由はここにあるような気がする。さらに具体的に支持できない理由が、最近の行い・発言などから導き出されるのではないか。鳩山前総理と現総理の決定的な違いは、「視座が明確でない」ということなのかもしれないな。

そこから更に考えを発展させ、9月の民主党代表選を控えて「次期国家首班像」を考察したのが、次のツイートに始まる下記の一連のツイートである。

9月には党の代表選が行われるが、ここで問われるのは何だろうか。党内の政治、国会でのすう勢を考えて人選がなされるのは理解できる。しかし党の代表=国家首班となる以上、国内の党利党略だけで人選を行ってはならない。やはりここでも「明確な視座」が求められる。国内外に通用するものが。




いち国民の視点に戻ったいま、国民が菅総理を支持できない漠然とした理由はここにあるような気がする。さらに具体的に支持できない理由が、最近の行い・発言などから導き出されるのではないか。鳩山前総理と現総理の決定的な違いは、「視座が明確でない」ということなのかもしれないな。

 9月には党の代表選が行われるが、ここで問われるのは何だろうか。

党内の政治、国会でのすう勢を考えて人選がなされるのは理解できる。しかし党の代表=国家首班となる以上、国内の党利党略だけで人選を行ってはならない。やはりここでも「明確な視座」が求められる。国内外に通用するものが。
 
ここで、“私たち国民”は国家の首班に何を求めているのか考えてみたい。

立場というものは不思議なもので、政界で失職して政治を当事者視点から語る 機会を失う一方で、今度は政治を外から国民の立場で語る機会を得た。確実に何かを失っているのだが、失ったままではないという状態。まがりなりにも3年間政界の中身を経験したことで、両方の「視点」を得ることができたのだ。

勿論、政界の中枢にいたわけではないので実際にどのように重要な意思決定がなされるのかなど、そういったことは未だ窺い知れない。ただし、報道や一般に知れ渡る前に知り得る「動静」というものがある。実感したのは、政治は万能ではなく、意思決定者らはいち人間に過ぎないとうこと。

外から覗くと、政治家は国民の信託を請けた政策の代行者であり、無限責任があるかのように思ってしまう。他方、政治家の視点では常に一般国民・マスコミ・地元有権者・有力者の監視があり、その中で与えられた職責を全うすることと、自らの理想を政策に転化することのバランスをとらなければならない。

つまり政治家には、国会にいるかぎり党あるいは国家の政策に責任もって取り組むことが求められ、なおかつそれらの政策あるいは別口の政策で地元にも何らかの益をもたらすことを求められる。これらを同時にこなせるのが、いわゆる「優秀な政治家」に求められる資質のような気がする。

 「国家首班」は、こうした政治家の中から選ばれるのが理想である。国政においてオールラウンドなプレイヤーであること。これが最低条件になるのではないか。なぜならそれは政策実現のバランス感覚を持っていることを意味するから。しかし、首相には国家首班たる更なる資質が求められて当然。

全ての現実的制約を取り払うと、私達は国家の首班に何を求めているのだろうか。それは、国政においてはぶれずに政策の「実行力」を示し、国会において毅然と与野党の批判に耐え堂々と議論を引っ張る「求心力」を持ち、外交においても物怖じせずに国民の利益を主張する「強かさ」だろうか。

不思議と、近年を振り返ってこの3つの資質を兼ね備えた国家首班は小泉首相だけだったような気がする。それはきっと、多くの国民が今も認めることで、小泉首相を超える国家首班を私達は未だ知らないと思う。かといって、小泉首相が政治家通信簿でオールAをとれる実績を残したわけではない。

それでも総合的に、「国家の首班」として小泉首相を越える人材は育っていないと思える。旧与党の自民党にも、現与党の民主党にもである。強いていえば、現在の各党首脳クラスに欠けているのは「強固な意思」かもしれない。

3つの資質を併せ持つには、そのコアとなる力が必要になるのではないか。

明確な目的意識(理想であるか現実の改善であるかに関係なく)に基づく「強固な意思」。これに「実行力」「求心力」「強かさ」は牽引されるのではないか。

ところが、この
3プラス1の資質を兼ね備えている理想的な人材などそう居るものではない。さらに厄介なのは、こうした資質が揃ったとして、
その指導者が純粋に国民の利益のためにその力を活用するとは限らない。

あるいは、短期・中期・長期的のいずれかのレベルで国民の利益になるのかもしれないが、国民がそれを実感できずにいて、志半ばで国民に見捨てられる指導者もいるかもしれない。鳩山前総理が後者だったのは日頃の発言からもわかる。

鳩山前総理は「次の半世紀を見据えている」と自身で表明された。確固たる政治信念があり、その目指す先にはあらゆる呪縛からの「国民の解放」があったように思う。しかし理想が遠大すぎ、そして時代を飛び越えすぎ、国内外においてこの考え方は多くの支持を集めなかった。私は個人的には支持していた。

小泉元総理がいまも圧倒的「国民人気」を誇るのは、彼の政策が一般の国民に益をもたらしたからではないと思う。経済政策が正しかったのかどうかも、正直苦手分野なのでよくわからないが、国民の「感覚」としては正しくなかったのではないかと思う。

実際、いまそのツケを払っているのだから。

しかし今の私達には、政治を面白くしたり、胸がすかっとする演説をしたり、独裁的な意思決定システムを断行したり、国会でワンフレーズで相手をいなし、床上手に外交もこなす、そんなカリスマ的なパフォーマンスを行える指導者を望んでいる余裕はない。

それが、小泉政治の終焉の意味することではないか。

「もう誤魔化されない」―これが国民の総意ではないだろうか。つまり、仮に小泉「型」の政治家を望んでいるとしても、それは3プラス1+αの「視座」を持っている人物でなければならないのではないか。

国の窮状を憂い、理解し、そして国民の求める改革を断行する人物。そんな人物を、私達は求めている
――そう、私はいち国民として、思っていいのだろうか。

以上、長文拝読感謝します。


2010.08.03 18:000~20:00位の間に呟いた内容(その間のReply・RTは別途、Togetterにまとめる