GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

Twitlog:読書メモ 『日本を棄てた日本人』(草思社)を読んで〔前編〕

石戸谷滋著('91) 『日本を棄てた日本人』             [カリフォルニアの新一世](草思社)を読んで 〔前編〕

寝付けない夜、この旧い本を取り出して寝室で読みふけった。
日本の本だが、裏表紙に“9.00”と値段が書いてある。

ボストン留学当時にケンブリッジの日本の本屋で買ったものだ。
卒業間近に買ったものだろうか。

ところどころ、アンダーラインが引いてある。



あくまで91年当時の著者の観察によるものだが、現代にもそれは当てはまるように思える。そこに描かれているのは、「新一世」と呼ばれる、60年代半ば以降の北米への移住者たちのありのままの姿だった。

著者曰く「新一世」とは、

アメリカで生活してるものの、結局この地では流れ者にすぎない人びと」

また「新一世」は、「・・・同時に海の彼方から日本を観察しつづけ、ときには同胞の活動に首をひねりながらも、日本に対する愛着を捨てようとはしない」人々で、著者は「彼らの行動や心情は、ときには矛盾に満ちているように見えることもある」と結ぶ。

学生当時の俺はここにアンダーラインを引いていた。

著者は2年間現地に滞在し、カリフォルニアノリトル・トーキョーで暮らす「新一世」たちの生き様をつぶさに観察し続けた。

そこに描かれている著者の目から見たアメリカ社会と、アメリカ社会の観点から見た日本社会のありようは、現代にも通じるような気がした。

たとえば著者は、アメリカは個人主義の国”であり、人々の付き合いは「日本の場合よりもはるかに淡泊で、他人の行動に干渉しない」としている。また
新一世の多くは、「この孤独に耐えながら、自分一人の世界をつくりあげ、日々の生活を送っているのである」とも。

あくまで90年代当時の観察である。

新一世の生き方にふれた経験の中で、著者は90年代の日本社会をこう形容する。

「日本の社会は、人びとが肩を触れあい、相手がそこにいるのをいつも確かめあっているような世界である。良く言えばお互いを気にかけあっている社会、悪く言えばお互いを監視しあっている社会と言えるだろう」

この洞察のあと、学生当時の自分が特に力を入れて 波線でアンダーラインを引いたのが、次の言葉だった。

「何かをやりたいと思ったとき、われわれは必ず自分の周囲の人びとの視線を意識し、その賞賛や非難の目を心中に描いてから実際に行動に移す」

90年代の日本人と2010年現代の日本人、そう根本は変わっていないと思う。

実際、この本の中に描かれているような動機で、会社のお金や自分のお金で単身留学して、結局は語学学校に通うことになって、さらに俺のような留学生の家庭教師まで受けて、お金がなくなったら泣く泣く帰国する人がいた。


こういう人たちは、いわば「新一世」になりそこねた人たちだった。

なかには、どうしてもアメリカの社会に溶け込めず、酒やドラッグの世界に埋没してしまって、日本にいる時よりも悲惨な生活を送っている人もいた。

それでも彼らは、アメリカに留まりたかった。

著者はこう続ける。

「ここカリフォルニアでは、他人に迷惑をかけないかぎり、どんなことをしても誰も何とも言わない。人びとはお互いにもたれあったり助けあったりはせず、周囲の人間とはいつも一定の距離を置いて生活している」


これは、俺もボストンで実感した。でもそれが心地よかった。

著者は“甘えの許されないアメリカの世界に投げ込まれた”日本人は、ノイローゼ等の精神的危機に陥ると観察する。

だが、著者が指摘する通り、真の自由はその先にあるのだ。

「ところが、日本人の誰もが一度は直面すると言われるこの精神的危機を乗り越えると、今度はその自由さが快くなってくる」

その通り。“危機”を乗り越えた後の生活は自由に満ち溢れている。仮に「日本人ではあるが、日本にいる日本人とは違うし、かといってアメリカ人にはなれないし、どっちつかずの人間になっている」としても、それを受け入れる懐の広さがアメリカにはあるから。

だから「新一世」と呼ばれる人々は、アメリカでは“流れ者”に過ぎないことを自覚しつつも「なおアメリカを愛し」さらに「日本に対する愛着を捨てようとはしない」のだろう。両者が併せもつ価値を貪欲に追及して、異国においてなお日本人であろうとし続けるからなのもかしれない。

以上。半分まで読んだ感想。


(後編につづく)


(実はリアルタイムでツイート進行中