GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

報道倫理:ジェイ・ローゼン教授が次世代のジャーナリスト予備群に贈る「真・ジャーナリズム入門」

ニューヨーク大学ジャーナリズム学部のジェイ・ローゼン(Jay Rosen助教授が、2010年9月パリ政治学院でジャーナリズムの学徒たちに向けて行った講義の内容が興味深い。とくに関心を引いた後半部分のみを抜粋して翻訳してみた。


『かつてメディアと呼ばれたジャーナリスト』
The journalists formerly known as the media

The people formerly known as audience
「かつて聴衆と呼ばれた人々」(The people formerly known as audienceは、その存在と、誰もが知る地殻変動によるパワーシフトが起きていることを「メディア」に知らしめようとしている。船の乗客が、自身の船を持ったようなものだ。「執筆するリーダー(reader)」「カメラを構えたビュワー(viewer)」。かつては「核化」されていた「視聴者(audience)」たちが、いまでは容易に互いに繋がりあって、世界に自分の言葉を発信することができる。

今日は、この考え方に一つ付け足したい。

なぜなら、「かつて聴衆と呼ばれた大衆」の誕生により、「かつてメディアと呼ばれたジャーナリスト」(The journalists formerly known as the media )も誕生したからだ。私たちに代わってこの定義を見つけだす機会が、次の世代のジャーナリストの卵である君たちに委ねられている。

デジタル革命は因果律を変えてしまった。新しい力の均衡が生まれ、生産のツールや分配の力が、「かつて聴衆と呼ばれた人々」の手に移った。

だから君たちには、「かつてメディアと呼ばれたジャーナリスト」に自ら望んでなる機会がある。「そこにいる」受け手側の人々にジャーナリストが何を与えられるかを新たに実践してみせる、いわばキャリア組だ。「新たに」とは言っているが、実際は長きに渡る闘いの新たな章の幕開けという意味にすぎない。闘いとは、いかにして、物事を注意して知ろうとすることにより、それを自らの知識とし、何を為すべきかを主張することを是とするパブリック(publicを誕生させるかということだ。

「かつてメディアと呼ばれたジャーナリスト」という概念について、もう少し掘り下げてみるとしよう。私がジャーナリズム学研究本の中で一番好きな言葉を使うとしよう。マスメディア研究で有名な英国の作家であり社会学者であるレイモンド・ウィリアムズ(Raymond Williams)のものだ。

ウィリアムズは1958年に著書『文化と社会』でこう書いている。

「大衆というものは存在しない。人々を大衆としてみる方法があるだけだ」

解説すると、ウィリアムズは地方紙のいう「リーダー」(readersすなわち、同じ地に住み学校や仕事に通い、同じ待ちを歩き政治に参加する人々が、英国全土で売られる大手新聞やタブロイド誌のいう「リーダー」とどう違うのかを比較しようとしたのだ。

人々を「大衆」(massesとみなす技術は、マスコミやマスメディアのプロたちが1850年から2000年位までの約150年間専売特許とし続けた技術だ。

しかし現代になって、これが単なるインターバル(intervalに過ぎなかったということ。ひとつのフェーズ(phaseでしかなく、パブリックに届けるツールが一時的に私たちの手に密集していたに過ぎなかったことが分かってきた。

プロフェッショナル・ジャーナリズムの誕生は、1920年代にまで遡り、このフェーズの間ずっと生きながらえてきた。しかし、もう一度いう。これこそが、君たち次の世代が解放されるべき「枷」なのだ。「かつてメディアと呼ばれたジャーナリスト」は、別の技術を専売特許とすることでこの枷から自らを解き放つことができる。それは、「人々」を、自らメディアを創る力を持つに至った「パブリック」とみなす技術だ。

私からのアドバイス

続きはここで。