GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

外交:「保護する責任」の理念をはき違え、足元を見ない日本の専門家

「世界から「正義の国」として尊敬される国になるためにも、大きな危険と犠牲を伴う外科手術に積極的に参加し、国際社会の安定に貢献するときがきているのではないか。」「正義の戦争は不可欠である、と国連は考えている」―防衛大学校教授・村井友秀 

憲章第7章は「正義の戦争」を肯定するものではない

この考え方は順序が違うだろう。正義を行う国は国内外で正義の国でがなければならない。でなければ、正義の矛盾が生じる。それがアメリカだ。アメリカのような「正義の国」になることを目指すべきではない。

「外科手術」を行える医師には「資質」が必要である。

また安保理と国連を同義に考えるべきではない。安保理は国連の平和執行機関であるが国連そのものではない。国連には多岐にわたる機能がある。筆者の防大教授は、安保理の行動原則ではあるが、国連総会によって採択されて成立した国連憲章7章を持ち出して「国連は考えている」としているが、過去半世紀以上改正されたことのない7章を持ち出して「考えている」とはいかがないものか。

実際は、「考えていた」が正しい。それも、60年代初頭までの話だ。

国連憲章では「正義」ではなく「公正」な戦争が行えないから、国連創設後はやくも60年代初頭には「憲章6.5章」という考え方が生まれていた(参考)。これが、当時のハマーショルド国連事務総長をはじめとする国連幹部の賛同を受け発展した。それが国連平和維持活動(PKO)である。日本はこの考え方に賛同し、国内の世論説得に紆余曲折を経ながらも、90年代にはPKO法をつくり、内閣府国際協力本部を設けるまでに至った。これが国連の行う「外科手術」に対する日本の協力である。

他国のことよりも国内の「正義」の実現を

近年リビア事態を皮切りに運用が開始された「保護する責任」と憲章7章の考え方は、6.5章の「敵のない兵士」の考え方を、「“文民を保護するためであれば”、国連軍が敵を持つのもやむを得ない」と発展させたものだ。憲章6.5章は実在しないため、7章に基づき実施されるがその精神は6.5章のものである。即ち、制裁措置としての軍事行動を定義付けるものはない。国連の理念として、本来は「敵」を持たないことを目指すが、「文民を保護するため」であれば武力行使も辞さないことを明文化したものなのである。

この根本の理解なしに、安易に「保護する責任」に基づく「外科手術」に積極的に参加すべきなどと言うべきではない。すでに6.5章には「参加」しているのだから。それよりも、日本には国内の「正義」をまず実現し、国民を保護する責任を果たすべきだろう。国際社会に「外科手術」が必要な国と思われる前に。

端的に言えば、まず自分の足元を見ろということだ。

この国には、その基本理念として国民を保護する責任を履行する考えがない。にもかかわらず、国際社会が干渉しないのは、国際人道法違反でなくとも干渉することを認める明確な行動規範が存在しないからだ。自国に干渉する国際規範が存在しないからといって、他国には既存の国際規範のみに基づいて干渉しようとする― そんな国に、他国への「外科手術」に関わる「資質」はない。
(了)