GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

『テルマエ・ロマエ』に込められた“想い”に魅せられて

そろそろ、“世界連邦”の話をしてもいいのではないか

そろそろ「世界連邦の話をしよう」なんていうFacebookページを始めてもいいのかもしれない。

『テルマエ・ロマエ』単行本全巻を読んだのち、映画を見て、そして作者のブログ”戦闘記”をまとめた最新著書『テルマエ戦記』を映画を見た当日に一気に読み終えてみて、なぜこの作品にこんなに惹かれるのか実感した。作者に共感しているのだ。

そしてもし仮に作者が単行本5巻でグランドフィナーレを考えていて、別の形で構想を表現しようとしても、それはそれで納得がいく。この作品の構想が生まれる前から、この構想のエンディングは決まっていたのだと思うからだ。

よく「構想何年」とかいわれれるが、この作品は「生涯構想」だと思う。あとは形にするだけで、漫画は実は表現方法の一手段に過ぎない。ブログの文章でも、単行本の後書きにしても、この作者には文才があることは誰もが認めることだと思う。映画化は、作者の中にあったひとつのを叶えてしまったようだが、彼女の中ではそれは一つの表現の終わりでしかないように思う。

作者の生きる環境では、「忙しい漫画家」は理解されにくい職種らしい。イタリア人の家族を持つ彼女にとって、住み慣れたリスボンや新天地シカゴの価値観はいずれもワーカホリックな日本人の性質(タチ)を受け容れようとしない。だが作者には、幾多の障害を乗り越えてでも、表現したいものがあるようだ。漫画家である前に、人として。探求者として。

テルマエ・ロマエ』の作者が表現したい内容は、その作品を通してしか説明できないものかもしれない。作者はそれが映画によって、作者自身の「見たかった」ものが表現されたと形容した。それが「見たかった」から「漫画に描いてみるしかなかったのだよ!!」と、著書に興奮気味に描いている。

和はすべてのものに通ず

では、映画を通して異邦人の私が何を見て共感したかというと、「和はすべてのものに通ず」の精神だった。作品の“主役”であるテルマエ(風呂)は、実はその媒介でしかない。テルマエという媒介を通じて、異なる国・人種・文化・歴史・時代を生きるものが「和」を共有できるかもしれないということ。

テルマエのような「和」を生み育てる共通項があったとしたら、世界の人びとは、違いを恐れ、罵り、虐待し、境界を作り、それを強化し、自らを守ることに固執し、排他的になり、利己的になり、視野狭窄に陥り、孤独になる―という一連の業から解放されるのではないか。

孤独だからこそ、人は群れるのだと思う。

「和」を望まない人間はいない。それが内なる孤高の平穏であろうと、集団の中での安寧であろうと、本質的に人間が求めるものが「和」であり、いってみれば快楽というものすら、この和を実現するためのひとつの媒介に過ぎないかもしれない。『テルマエ・ロマエ』を読むと、そう思えてくる。

実写版『テルマエ・ロマエ』はこの精神を忠実に再現・映像化した。そこに作者としては、なんともいえない達成感を感じたのではないだろうか。表現者として、自らが創ったものが多くの人間の共感を呼び、支持され、また感動を起こす作品に仕上がっていると感じる時ほど、喜ばしい瞬間はないだろう。

ブームは人が“起こす”もの、作られるものはない

私が『そろそろ世界連邦の話をしよう』というFacebookページを作ってもよいのではないかと感じたのは、作品の面白さ、奇抜さだけでなく作者のそうした内なる願いのようなものが多くの人に伝わったからこそ、人から人へと支持が広まり、「ブーム」というのが起きるのではないかと思からだ。

「ブーム」というものは、一定の勢いを経て加速力を得て始めて発生する社会現象である。さまざまなマーケティングの仕掛けはあるものの、一人の人間が生み出した「作品」の面白さというものは、そんなビジネスの世界の計算など吹き飛ばしてしまうほどの「つかみ」を持つ。

では、この作品の「つかみ」は何か。

なにより、「訴える力」だと思う。人にとって根源的な「和」を尊び求める精神。それは本当に古今東西共通の精神であって、常に外敵や内なる敵に苛まれている刺激を求めたいという人間はおそらくどこが「人間らしさ」が麻痺しているのだろうと思う。だからこそ、これだけの短期間で「ブーム」が起きた。「訴求力」という、ビジネスの世界で使い古された単純な指標では、計り知れない力によってだ。

そろそろ、日本人も隣国といつまでも啀み合っていたり、蔑んだり蔑まされたりする、そうした荒んだ世界から脱皮したいと思っているのではないか。他国の言葉が出来ないこと、理解できないことに劣等感を感じ、他のもので優越を誇るという「寂しい」行為から解放されたいと願っているのではないか。

ただでさえこの国は分断されている。分断が統治の方法と勘違いしている時代錯誤の権力者。分断がそれぞれの中で限られた和を生み、しのぎを削って交代制で力を握れればいいと思っている人びと。原発にしたって、在日米軍の問題にしたって、どちらの考えが優れているかで優越を誇るほど「寂しい」ことはない。

テルマエのような「和」を生み育てる共通項があったとしたら、世界の人びとは、違いを恐れ、罵り、虐待し、境界を作り、それを強化し、自らを守ることに固執し、排他的になり、利己的になり、視野狭窄に陥り、孤独になる―という一連の業から解放されるのではないか。

これは、単に世界の人が求めるものではない。日本人だって、きっと求めていると思う。その可能性を持つもの、日本人の世俗文化に根付くもの。私たちのコアにあるもの。そのミディアム(媒介)テルマエ(風呂)というローマにすら通ずる文化だった訳だ。


“外”から観たテルマエ(風呂)文化の価値

私は実はこのテルマエ文化の重要さを、外からの視点で見つめた。なぜか。風呂嫌いなのである。というより、水が嫌いと言ったほうが正解かもしれない。だから実は「風呂はいいよ、たしかに!日本人の魂の真髄だ!」などとは露とも思っていない。意外だったろうか。

異邦人である作者が異国から日本文化を希求する中で描いた『テルマエ・ロマエ』。そこには風呂の無い生活の中で風呂を切望する作者の強い願いと、作者が愛してやまない古代ローマの軌跡、そしてそれを何とか一つの形に表現したいという強い“想い”がある。

テルマエ・ロマエ』は、それらすべてが折り重なって完成した一つの創作物である。

作者がこの作品を造り出せたのは、様々な境遇が重なり合ったためだ。それは四十半ばにして花開いた遅咲きの報いだったかもしれないが、作者が異邦人であること、それでいて日本文化を愛していること、多文化も同様に愛していること。これら強い“想い”がなければ、いずれも実現しなかっただろうと思う。

そして、人びとはその強い想いに、無意識に反応したのかもしれない。「ブーム」は、人によって発生するものであるが、作られるものではないのかもしれない。もし「テルマエ」=風呂がローマ時代以来からのブームだったとしよう。これに勝るブームなど、人に作れようもないではないか。

それが、“文化の力”である。

この文化の力で、いまいちど日本に和を取り戻せないだろうか。もう一人の異邦人として、そう願わずには得られない。そしてこういう想いを新たにしてくれた作品に私は感謝する。



オマケ:読書・鑑賞メーターでの感想
読書メーター》 手記『テルマエ戦記』 読了直後の感想