GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

外交:具体論(前)常軌を逸した敵性国家に対する有効な備えとは─総括メモ

はじめに:常識の通用しない相手への心構え

善意によって成り立つ国家間の宣言を、関係国の圧力による制止を振りきってでも、軍事的な威嚇行為によって無効化するという、まさに常軌を逸した行動をとる北朝鮮。あらゆるルールを度外視して自らの要求のみを突き付けてくる相手には、それ相応の心構えが必要である。だがそれは、“目には目を”などという、一見合理的に思えるが実は稚拙な反応論に基づくものではない。相手が冷静さを欠くときこそ、こちらの対応次第ではことは悪化しかねない―自国の裁量次第で“未来を左右できる力”、その力を制御する責任が自らにあることを自覚しなくてはならない。

今回、日本はミサイルが発射されたら、どういう行動をとるかを通事前に通達・警告し、その通りに行動した。まず、これが能がない。一見フェアプレイに見えるが、外交においてカードが丸見えの状態で相手の行動を抑止しようという考えはまさに愚策である。カードが何であるかを公言してしまえば、相手の支援国はその情報をもとに事前に対応策を備えることができてしまう。つまり相手を利することになる。

対応がとれる制裁措置を公言してしまったら、要はその対応をとられてしまえば制裁は効果をなくすことを意味する。だが日本は、アメリカや他の中露以外の理事国のバックアップが“完全”に得られるという勝算あってか、カードを全てさらけだしてしまった。よほど確実な見込みがない限り、これは冒険行為である。だがもしも、この見込みがアメリカにより植え付けられたのならば、自己判断力のない、アメリカの外交力に寄生するだけの日本の外務官僚がその“罠”に飛び付いてしまうのも無理がないと言える。事前警告を出してしまった時点で、日本はアメリカの用意した盤上のコマと化していたといえるだろう。アメリカのゲームの目的は何か、これまでのメモで述べたとおり、中国に貸しを作ることである。

アメリカの敷いた盤上にいとも簡単に載る日本

日本がこのアメリカの目論みを承知の上で盤上に乗った可能性は低い。アメリカはそこまで日本を信頼しておらず、日本に制裁措置公言の進言をしたときもその真意を明らかにしてはいないだろう。だが日米同盟しかすがるもののない日本は考えることなくアメリカのアドバイスに従い、アメリカの全面的な支持を得ていると確信して意気揚々と公言に走った―そうとしか見えなかった。これが、そもそもの誤りだった。

アメリカのグランドデザイン(世界戦略)には仮想敵国としての中国に対する戦略が常にあり、日本は常にその盤上の控えのコマでしかない。メインプレーヤーとしてすら、認識されていないのだ。まして、中国に対して挑発外交を続ける日本など、アメリカにしてみれば煙たい存在で、出来れば組みたくないジュニアパートナーでしかないだろう。それくらい、日本の外交姿勢は危うい目で見られている。

アメリカが日本の外交を評価していないという印は、日本が国連安保理の常任入りに名乗りをあげ、各国の票田をかき集めていたときに具体的な形となって現れた。

アフリカの大票田が支持獲得の鍵を握ると知った日本は、無償支援などの旨味を餌にアフリカ諸国を回った。ところが予期しない形の妨害にあった。時を同じくして、EUとともにアメリカまでもが、日本以上の規模の無償支援を打ち出し、アフリカ諸国を歴訪したのだ。しかも、ブッシュ大統領自らが、今まで行ったこともない国を1つ1つ回るという周到さでだ。てっきり日本の常任入りを手放しで歓迎していると思った最大の同盟国が、堂々とそれを阻止するための一大キャンペーンを展開したのである。その行動が持つ意味は「おまえたちにはまだ世界の安全保障を任せられん。当面サブでいろ」永久補欠をいいわたされたようなものだ。つまりアメリカはまだ、日本が国連安保理の表舞台に出るほど成熟していないと判断したということだ。

このような大きな裏切りにあっても、アメリカを信じついていこうとする日本の姿勢には憐れみすら覚える。それが日本の生きる道なのだとは受け入れたくないものだ。が、ここで、抽象論で挙げた「日本スタンダード」を尊ぶ精神が必要になってくる。盤上のコマであっても、その役割をまっとうすることに終始し、貫徹する、あるいはそれ以上の役割を果たす。これが「日本スタンダード」の実践形態である。ではこの精神はどのように外交の場で発揮できるのか。すでに制裁は発動され、安保理に事態は付託され、行動してしまった後なのでサイは投げられているが、まだ運命の流れを変えることはできるだろう。

外交における「日本スタンダード」の実践

「日本スタンダード」の徹底とは、すなわち「達観」である。

外交における「達観」とは、つまり相手の意図を正確に読み取った上でそれを自らの戦略と照合し、頭の中で刷り合わせて相手の意図を自己の目的の実現に利用するしたたかさを持つということだ。それは、自らが利用されることを知りつつもそこで感情的になったり嫌悪感を持たずに、ありのままを受け入れて、あくまで自己実現を目指すということ。恥を忍ぶことに恥と感じず、広い視野で大局を見据え、最終的に自らを利するならその場での負けも善しとする。この精神を外交に取り入れることだ。そしてこの心構えで、北や中国、韓国、ロシア、アメリカ、ヨーロッパと渡り合っていくということだ。今回の件にも、この「達観」の姿勢で「日本スタンダード」を前面に出して当たることが肝要となる。

抽象論の始まりの中で、「日本スタンダード」とは憲法に謳われている平和主義に根ざしていると説明した。それは自己よりも他を尊ぶ一歩退いた“美徳”によって成り立っているということも。だがここで勘違いしないでほしいのは、憲法に謳われている平和主義とは自らを護る権利を放棄してまで徹底されてきたものではないということだ。平和主義の徹底とは、単に武器を捨て、軍を捨て、戦争をしないことを誓うことで実践されるわけではない。武器という“手段”を捨て、自らが戦争できないように“縛る”のは、つまり自らの国民性が好戦的で、武器という手段さえ持ってしまえば止められないと悟っていることになる。だから、精神論である“非戦の誓い”などを立てて、それが「平和主義」だと自負している。だがそれが、日本が半世紀実施してきた平和主義の姿ではない。それは消極的平和主義と呼ばれるもので、本来、憲法の精神にある積極的平和主義とは似て非なるものだ。

戦後、日本は憲法で軍備を放棄することと、戦争という手段を二度ととらないことを自ら約束した。日本はこれを国是とし、守り続けてきた。そのため、これまでいくら挑発的な行為に遭おうとも、実害を被っても、軍備を使った戦争という行為に訴えでることなく、半世紀にも渡る時間の中で繁栄してきた。しかし、ただそれだけで、日本は今日の繁栄を築いたのではない。専守防衛は日本の誇るべきスタンダードの1つであるが、実際日本はその理念すら実践せずにここまでやってこれたのである。それは、目先のプライドや勝利よりも、その先にあるものを見越して「達観」した判断のもと、自制するという強さを持ち続けてきからである。単に理念として掲げ、崇めてきたわけではない。日本は平和主義を実践してきたのである。それは単に平和を「願い」「求め」「待つ」という消極的な姿勢ではない。平和の砦を自らの中に「構築」し、「守り抜き」、「明日につなげる」という積極的な平和主義の実践なのである。これは誇るべき日本の平和主義という「日本スタンダード」だ。