GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

外交:具体論(中)常軌を逸した敵性国家に対する有効な備えとは─総括メモ

誇るべき日本の真の平和外交の実践とは

積極的平和の最大の実践者が誰だったか。それは、専守防衛という困難なことを現場で実践してきたであろう自衛隊とその隊員の一人一人である。軍事にニアミスなど、アクシデントはつきものである。特に海底など見えないところでどのような攻防が繰り広げられているかなど、国民には知る善しもない。しかしそうした偶発事故についても、秘密裏にそして平和裏に処理されてきたことは、冷戦期の米ソ間のニアミスや、ブロークンアロー(核偶発事故)、一触即発の危機に陥ったという歴史上の数々の記録を見れば、これは日本にも実際にあったことだと想像できる。そして、きっと今もあり続けているのだろう。だが日本を見てみるといい。平和そのものだ。戦争の予感など、一部の人間が煽り立てているだけで現実はもっと高度な政治の場で決着をつけようとしている。有事に備えることは必要だが、それ以上でもそれ以下でもある必要はない。国民が生存し、財産が守られれば、それで国は国として機能する。国民の誇り?それを守るのは国の使命ではない。自分の誇りくらい自分で守れ。なんでも国任せにするのはお門違いである。

いまの平和立国日本を支えているのは、一部の消極的平和主義者たちが批判する自衛隊とそれを存続させている政府、そして自衛隊と連携している在日米軍とその駐留を継続させているアメリカである。これは歴然とした事実であり、否定はできない。その存在なしに、いまの繁栄は築けていないからである。その存在なしに、これまでにいくつもの戦争は抑止されてこなかったからである。だがその貴重不可欠な存在も、近年は性格を変えつつある。ここには危険な兆候が見えるが、いまはその兆候すら利用してしまうくらいの構えでことに当たることが肝要だ。軍の有効利用なしに、日本の真の平和外交は成り立たないからだ。そう、軍も平和維持のための一つの手段、ツールに過ぎないのである。支配のためのツールでも、侵略のためのツールでもない。平和維持のためのツールである。

いま日本では盛んにミサイル防衛の強化や敵地攻撃能力の実装の必要性が叫ばれている。目前のミサイルという脅威の前に、有識者や文化人までが口を揃えてその必要性を声に出し始めている。なんで、日本人はこんなに簡単に極論に飛んでしまうのだろうと、中にいながら常に外から日本を見ている俺はいつも不思議に思う。

北のミサイルは、日本本土届けば確かに脅威だ。
日本の領土・資産に向けられたら、それは脅威だ。

だがそれ以外に脅威と思える点があるのだろうか。
純粋に兵器として戦争で使用されたら脅威。
それだけの話ではないのか。

では戦争になる可能性はあるのか。実質的にあるのか。
その可能性を恐れて「備える」必要があるのか。
北は戦争を望んでいるのか。その覚悟があるのか。

北の意図を正確に読み取った上で戦争に備えるのか。
それとも「不測の事態」を予測した上で備えるのか。
両者はまったく違う意味合いを持つ。

また日本は戦争に挑む覚悟があるのか。
戦争を防衛力によって抑止する自信があるのか。
抑止できなかったときはどう責任をとるつもりなのか。
戦争後の日本の未来は考えているのか。
戦争後の日本の立場は考えているのか。

それだけ考えた上で、抑止力としてのMDや敵地攻撃能力の“早期”獲得を謳っているのならばいい。何もかも、覚悟の上なのだろう。だが本当にそうか?

本当に日本の“明日”を考えているのか。
本当に日本の“存続”と“繁栄”を考えているのか。
本当に開戦の責任がとれるのか。

本当に戦争を現実的なものとして実感しているのか?

テレビ、報道、雑誌、ネット上の議論を見ていてもとてもそうは思えない。

戦争は圧倒的な現実だ。当事国同士の関係が断絶され、互いがいつ殺されても文句いえない状態をいう。両国において在住する人間は戦争捕虜となり収容所に送られるか隔離されることになる。互いに自由がなくなる。戦争法というルールも、アメリカのグアンタナモアブグレイブなどを見ていても、どこまで守られるか定かではない。公には守られているようにアピールするだろうが、水面下でどれだけの人が不履行の犠牲になるかわからない。また戦時体制になったら国民の人権には制約が課される。これまでのような自由な行動や生活は営めない。報道だってそう、「知る権利」だってそうである。そのことを、メディアは少しでも考えているのだろうか?

「電撃的な勝利を収めればそのような心配はいらない」

─勇ましい開戦支持派ならこう言いそうだ。だがイラクで実際に「電撃的」な戦闘終結宣言を行った世界最強の軍事国家アメリカを見てみるがいい。なにがどう電撃的だったというのか。そして何が「勝利」だったというのか。そして今も、何千人のアメリカ兵が命を落としているのか。戦略や戦術だけで戦争に勝てるなら、アメリカはとうの昔にイラクを思い通りの国に仕上げている。だがアメリカにすらそれは叶わない夢だった。日本にそれが出来ると?日本の自衛隊在日米軍が総力を決すれば、北を制圧・支配できると?その保証はあるのか?根拠はあるのか?最短で戦争は終結するのか?できるのか?

そう、最終的に到達する問いは

「できるのか?」


これに尽きる。

できないなら、無責任な言動や行動は謹んで現実的な戦争回避の道を模索してもらいたい。そして俺は、「できない」を前提で考えを進める。つまり、日本は「できない」ことを無責任に行わないため、始めないために、なんとしても開戦を回避する必要があるという考え方だ。「もし戦争になったら」ではない。「戦争を回避するためには」という考えに全力を注ぐということだ。「もし戦争になったら」という仮定よりも、「戦争を回避する」ためのプロセス論を戦わせるほうが現実的だ。「もし~」はそのプロセスが破綻したときに保険として設けておけばいい考え方であって、それが主軸にあるのはつまりは戦争回避を優先せずに、戦争をすることになるのが初めから前提にある諦め論から来ている。初めから諦め、戦争回避の努力を考えず、戦争になったら勝てばいいなどと安易にしか考えない人間に日本の明日のことなど語らせない。「いままで散々屈辱に耐えてきた」という浪花節な根性論も受け付けない。すべては意志が成し遂げること。平和を求める意志があるのなら、簡単に投げ出さずに初心貫徹するものだ。それが真の平和主義であり、「いままでは平和主義だったが~」という論調は通用しない。諦めることは是ではない。認めない。それが「日本スタンダード」だ。

この「日本スタンダード」を元に、日本は戦争を回避する外交努力を行う。
それが、誇るべき日本の真の平和外交の実践の姿だ。

これまでの抽象論と一体となったその具体的な姿を最後の章で展開する。