GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

映画:(後編)日本沈没(Sinking of Japan)─2006年

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夢のような政府の競演

北海道の駒ヶ岳、九州の阿蘇山カンデラが消滅するほどの規模の大噴火(うろ覚えなもんで順番や地名が違うかもしれない)に象徴される、日本沈没の兆候を示す数々の大災害の頻発に対し、その一連の噴火で爆死した亡き首相に代わり有事の臨時指揮権を得た新任の危機管理担当大臣は、ただちに全国地方自治体の要請のないまま災害時特別措置法を適用して自衛隊の出動命令を発する。つまり首相でも副首相でも代理ですらない一閣僚が、有事に自衛隊に対して出動命令を発することから、政府の危機管理は始まる。

そうした平時および有事の際の指揮権移行のプロトコルを無視した命令に対する自衛隊の反応はどうか。これがなんの疑問もなく命令に従って災害時避難・救出活動に乗り出す。陸海空すべての部隊が協力し合い、東京消防庁ハイパーレスキュー部隊と自衛隊の間で管轄や権限をめぐる諍いなどもまったく発生しない。まったく見事なコラボレーションである。「日本全土が5年内に沈没する」─事態の深刻さを把握していない首相臨時代理によるこの死刑宣告ともとれる政府発表を受けての、「国家存亡の危機に対して政府一丸となって国家救済活動を行う」という絵がそこには描かれている─まったく、おめでたい話である。が、これがまさに俺の想定したい“ベスト予測”だった。おめでたい設定とはつまり、すべての要件がそろって、なんの諍いもトラブルもなく、ベスト(全力)を遂行できる状態を示す。それでもなお、そのベストの状態ですら抗うことのできないほどの「大きな力」に直面したとき、人というものが有事に何を為しえるか、そのビジョンが見えてくる。

つまり裏を返せば、政府=国家は有事にここまでのベストを尽くせる組織だとは想像しがたいという悲観的かつ現実的な認識のもとで、では有事にこれほど頼もしい国家の存在を期待できないのならば、国民はどうするべきだという命題が生まれてくる。逆説的だが、映画の中で国家の力量が美化されているのならば、現実はその真逆くらいに考えるのが妥当ということだ。映画の中での国家の働きが見事であればあるほど、それは原作者や製作者側の願望の体現に過ぎず、事実は似て非なるものであることをあらためて自覚する必要があるということだ。

お気楽設定に学ぶ求められる意識とは

現実に日本が想像できないほどの危機に遭遇した場合、映画の中のような見事な政府内部の連携は期待できないと思われる。だが、映画の中ではあくまで“ベスト予測”に基づいて話が進行する。つまり、政府のこの見事な連携プレイは、国民にしっかり伝わり、国民は完全に政府を信頼して政府の言うがままに行動する。そこでは、暴動も起きなければ略奪や犯罪の激化という現象も見られない。すべての国民が等しく災害の被害者で、例外はないという、これまたお気楽な設定の中で日本人の見事なまでに謙虚で従順なところが描き出されている。たしかに一部、国民が「パニック」してスーパーや銀行に押し寄せるシーンなどはあった。恐怖に駆られた人々の激しさの象徴として、金網越しに赤ん坊を抱える女性が後ろの群集に押されながら泣き叫ぶシーンがあったが、それも付け焼刃的な演出にしか思えなかった。それは、本質的に個人の生存本能というものが剥き出しになったとき、というほど野蛮な描写には思えなかった。

個性の尊重ばかりが謳われるようになった現代日本人が、実際に国家'転覆’というほどの危機に遭遇したとき、政府などの権力や秩序に抵抗することなく、「お上」のいうことを人々は受け入れ、おとなしく従うのだろうか。殺し合いや略奪、奪い合いをせずに、「苦しいのは皆一緒。皆で一緒に生き延びましょう」などと、綺麗事じみたそんな「助け合い」の意識を維持できるのだろうか。映画の中でこうした「危機に際した人間のリアリティ」という側面がお気楽に描かれるほど、俺はふと現実にかえり暗澹とした気持ちになっていった。

たしかに、泣けるシーンはあった。号泣もした。場内に観客の嗚咽が響き渡った。
終始手を握り合った。哀しかった。切なかった。だが陳腐な場面もあった。

どっかで聞いたことある台詞をどっかで見たことある場面で語る、ハリウッド映画お決まり的な決め台詞もあった。そこは見事に製作側の意図に乗せられて泣いた。それが映画の魔力というものだ。これには抗えないし、抗うと損する。なぜなら映画は最終的には「愉しむ」ためのものだから。

──そういう、娯楽映画としての側面はいい。だがもっと胸を貫くほど辛かったのは、そこに描かれているフィクションと現実との間にある余りあるほどの差だ。

こんな風に想像してみることから始める。

(個人・局地的災害)
列島沈没ほどの大災害でなくてもいい。地元で、あるいは愛する人のいる地元で、この10000分の1ほどの規模の災害が起きたときに、一体俺は、個人はどれだけ自由に動けるのだろう。社会のどれだけの人が快く協力し、どれだけの目的が達成できるのだろう。どれだけの人が救われ、救えるのだろう?

まずはこうして個人のレベルで考え、徐々にスケールアップしてみる。

(都市規模災害)
日本の六大都市で同様の規模の災害が起きたとき、政府は、自治体は、国民は、どれほどの関心と真摯な姿勢でその事態を受け入れ、他人事を自分ごとのように考え、支援・協力することができるのだろう?

さらにスケールアップして、映画に近づけてみる。

(国家規模災害)
日本全土でこの映画のような災害が起きたとき、国際社会は、アメリカは、最近隣の中国は、韓国は、どれほどの関心と真摯な姿勢でその事態を捉え、諸所の問題を凍結してでも日本に対して支援・協力の手を差し伸べてくれるのだろう?

俺が暗澹とした気持ちになる理由もわかるだろう。想像の中でスケールがアップすればするほど、より多くの日本人が救われる道というのが想像できなくなるからだ。



(長くなったが、次の「総括」で結ぶ)