GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

映画:(前編)日本沈没(Sinking of Japan)─2006年

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前書き

現在環境問題に強い関心─というより不安─を持っている俺にとって、この映画を見ることは特別な意味を持っていた。それは、脚本がどうキャスティングがどうという、映画という作品としてのファクターなどはどうでもよくて、未曾有の災害発生時≪有事≫に国家がどう動くかという一つのシミュレーションが具体的に映像化された一つのドキュメンタリー映画として見てみたいという気持ちが一番強かったからだ。そしてこの映画の製作陣は俺の期待を裏切らなかった。

無論、この作品の原作が30年以上前に書かれたSF小説であることは承知している。しかし、個人の視聴者が映画をどのような視点で見るかについて制約やキマリはない。だから映画は俺にとって、想像力の羽根を羽ばたかせることができるものであると同時に、事実や現実にある問題の考察の材料を提供してくれる「究極の嗜好品」なのである。だから俺はどんなシリアスな映画であれ、映画は「娯楽」として分類する。しかしその捉え方は、娯楽とは程遠い真摯な姿勢で臨む。

原作が32年も前に書かれた作品で、幾度となく映画化、ドラマ化の流れを辿ってきた作品の21世紀版リメイクなので、以降は完全にネタバレ覚悟でいくので、何の前情報もなく映画をただ楽しみたい人はこの先は読まないでほしい。





























本編(前)

本作品の中で日本を沈没に追い込む地殻現象の一つが“メガリスの崩壊”で、劇中ではその崩壊は加速させているのはメタンガスを大量発生させる特殊な微生物(バクテリア)の大量発生によるものとされている。この“メガリス”は一種の地殻エネルギーとして実在するが、“メガリスの崩壊”に至る原因とされるこの微生物や、その大量発生によりメガリス崩壊が誘発・促進されるかについては、事実の検証はされていない。

本作では、この実際ではその実在が検証されていない微生物により、“デラミネーション”というまた耳慣れない地殻現象が引き起こされ、地殻の最深部が剥がれ落ちることでメガリスの崩壊が促進されるという説をもとに、実際に日本列島が沈没していく様が描かれる。


ここまではSFなので何も事実に基づく必要はない。原作は想像の飛躍をしているが、それがSFというものなのだから、そこは割り切って楽しむべきところだろう。しかし問題はその荒唐無稽な説によって実際に日本沈没が起きるとわかったとき、政府が、国民が、個人がどのような行動をとるだろうか、という描写だった。俺にとってはここがまさにこの映画のコアポイントだった。

往年のパニック映画と一線を画す作品

日本沈没』は、いわゆる“パニック映画”ではない。カタストロフィ(崩壊)を描いた作品ではあるが、近年のパニック映画のように、そこには阿鼻叫喚とする人々の姿が克明に描き出されているわけではない。大自然の猛威により人々がなす術もなく─というお決まりの演出ではなく、圧倒的な力により一瞬のうちになぎ倒され、焼かれ、吹き飛ばされ、飲み込まれてしまう人々がどうこれに立ち向かい、その恐怖を克服してゆくか。その過程での国際社会の、国家の、国民の、個々の人々の躍動が描かれているのであって、恐怖の描写には二次的な価値すら置かれていない。

近年、『日本沈没に』に近い形で人々と自然との葛藤を描いたものといえば、世界中に環境問題に関する危機感を植えつける功績を果たした『デイ・アフター・トゥモロー』が記憶に新しいが、あの映画の中では政府=国家の役割は最小限に描かれていた。物語の中心は群集劇にあり、最終的には一つの家族の話に集約されている。その中で政府が果たす役割はわからずやで頭の堅い連中というだけで、あまりにもリアリティがなさすぎた。一方で『日本沈没』では、現実には荒唐無稽とはいえ、設定上は十分説得力のある科学者たちの警告に耳を傾けた政府が、未だかつてどの国家も遭遇したことのない国土沈没という危機に対してできることをすべく動き出す。そこに映し出される有事の日本と日本人の姿こそが、俺が求めていた「絵」だった。俺は現代日本における有事の姿というものがどんなものか、それを他人の想像力を借りて見てみたかったのだ。まさにこうした映画は、俺にとっては自分の想像力の触媒となるわけである。



(後編へつづく)