GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

平和:自分の平和思想の起源(序章)

自分にとっての反戦アニメとは

反戦」とは言っても、当時のアニメでは、主人公をはじめとする「正義を行う側」が武力を使う─というか使いまくる。その使用を最小限に抑えて(少なくともそう努力して)、最大の癌である敵の首領を倒すと平和が訪れる─そういうパターンが多かった。だがいわゆる勧善懲悪の世界ではなく、主人公は自らが正しいのかどうか、自らが「正義を行う側」としてふさわしい人間かどうかを悩み続け、成長していく。反戦ロボットアニメの金字塔といわれる『機動戦士ガンダム』の初期シリーズでは、10代で戦争の当事者となった少年が、葛藤しながら一人前の戦士になっていく姿が描かれている。初めて人を殺し、破壊をもたらしながら、それが自分を守るためだったと自己の中で正当化されていくことに戸惑いながらも、事実を受け入れ、乗り越えていく。「これが戦争なんだ」─と。

同じ台詞は『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』でもよく聞かれた。『ヤマト』、『999』、『ガンダム』。この三作が、俺にとっては幼少期から自分の平和思想に最も影響を及ぼしてきたと思われる作品だった。それぞれ持ち味も主人公の形も違っているが根本にあるのは戦争や争いごとの無益さを、敢えて暴力的な描写によって訴えているということだった。(同時期に『ドラえもん』も見ていたが、平和思想の育成にはなんら影響しなかったようだ)

単純に童心に還れば、正直に言って子どもの頃にアニメを見ていたのは、実際は派手な破壊シーンやカッコよさに憧れていたからという理由からのほうが強い。でも子ども心ながらも、そうした破壊や暴力のシーンから何かを感じ取り、疑問を持つようになっていた。それは、「何が正しい」って単純にはいえないんだな、ということだった。

この三作の中では、勧善懲悪が根底にないので「悪」とされるキャラクターやその勢力にもちゃんと設定があり、「悪」と思われる道に導かれてしまった原因や動機が明らかにされている。つまり「悪」とされるものには「悪」である理由があるのだ。では「正義」の側はどうか。不思議なことに、「正義」の側は大抵「悪」の側よりも精神的に脆く、いつも葛藤している。ところが最終的に大いなる気付きによって「正義」が「悪」に勝って強くなり、「悪」を打ち倒す。これは作品として、子どもにカタルシスを与えるためのテクニックだったのだろうが、そうした大人(製作者)側の意図に関係なく、子どもの俺は普通にあらゆることに「疑問」を持つようになった。それは俺に「すべてのことには原因がある」という考え方と「物事を表層で判断しない」という考え方を植えつけることとなった。つまりは何事も額面どおりに見ないで疑ってかかる精神のようなものが芽生えるきっかけとなったわけだ。
(つづく)