GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

史実:サンフランシスコ講和会議の真実

いま明かされる、知られざる「寛大な講和」獲得の舞台裏

30年振りに開示された外務省の機密文書によると、サンフランシスコでの対日本講和会議に臨んだ吉田茂首相を代表とする日本全権代表団は、敗戦国としては歴史的にも稀な「寛大な講和」を実現するために、会議の開催国のアメリカと密約を結んでいた。それは、日本の再軍備だった
―昨日放送されたNHKのドキュメンタリー『その時歴史が動いた』は、このような前振りで始まった。番組は当時の吉田首相とアメリカ側の全権大使ジョン・フォスター・ダレス(後の同国国務長官)との交渉を追い、日本が「寛大な講和」を勝ち取るまでの舞台裏の攻防を描き出す。

以下、番組内容を公式ホームページから抜粋。

その時:	昭和26 (1951) 年9月8日
出来事:	吉田茂首相がサンフランシスコ講和条約に調印

昭和20 (1945) 年8月15日、終戦。しかし、日本には「独立」のための“もうひとつの戦い”が残されていた。その陣頭に立ったのが、吉田茂。吉田は、より犠牲の少ない条件で独立する「寛大な講和」を目指す。
多額な賠償や領土割譲が強いられれば、日本は再生不能に陥るからだ。
朝鮮戦争がぼっ発し、冷戦が激化するなか、日本を西側陣営に取り込みたいアメリカは、賠償請求などがない寛大な講和条件を提示。いよいよ吉田はアメリカとの直接交渉に挑む。しかし、そこで米代表・ダレスに条件を突きつけられる。それは日本の「再軍備」要求だった。新憲法戦争放棄をかかげた日本。しかし、この要求をのまないと講和は頓挫する。葛藤の末、吉田は再軍備を密約。これにより、講和の動きは一気に進展する。
昭和26年9月4日、サンフランシスコ講和会議の幕が開く。不参加表明していたソ連と東欧諸国が加わり、会議では東西陣営が激しく衝突。さらに、アジア諸国の日本に対する厳しい発言が相次ぐ。
しかし結果、52か国中49か国が調印し、条約は成立。日本は寛大な条件による「独立」を勝ち取った。
さらに同じ日、吉田は米軍基地に向かう。「日米安全保障条約」に調印するためだった。独立とともに、日本は「米軍駐留」「再軍備」という課題を背負うことになる。
シリーズ後編は、寛大な条件で独立を勝ち取るため、吉田が結んだ2つの条約の功罪を描く。

(執筆中)