GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

コラム:「能のないもの」の逆襲

評価する側の未成熟

誰かを実際にそうである以上に過大評価したり、
あるいはそうであるより遥かに過小評価したりする。
それは評価する側の未成熟のあらわれでしかない。
その評価の振幅にブレがあるほど、
元から人を見る目がなかったのだ。

作家・いしだ いら

リクルート・フリーマガジン『R25
2006年9月7日号(No.108)の隔週コラム
『空は、今日も、青いか?』より


力(能力)のないものが、その事実をひた隠しにして、あるいは無自覚に、力(能力)のあるものに牙を剥くことは往々にしてある。自らの無能さを棚にあげ、本来「能ある人」をさんざん持ち上げていたはずが一転、粗探しを始める。それがマスコミの本質なのかといえばそうではなく「能がない」だけなのだろう。こうした「能のない」ものはマスコミだけでなくミニコミにも存在する。ネットの世界がそうだ。

掲示板やブログなどで、よく知識人や専門家肌の人(あるいは有名人)のある投稿をきっかけに「炎上」という現象が発生することがある。ネット情勢を分析しているIT系メディアなどでは、多くの原因は最初の投稿を行ったブログや掲示板のオーナーの力量にあるというが、果たしてそうだろうか。「炎上」という放火を愉しんでいる愉快犯らがいて、その“犯罪”を抑止しきれないでいる非力な個人がいるというだけではないのか。その非力な個人に罪があるのか、“放火”を愉しむ愉快犯らに罪があるのか、これは明白ではないか。

社会全般で、“強者”と“弱者”の逆転減少が起きている。これは、格差社会といわれる中での「勝ち組」と「負け組」を指しているわけではない。むしろ「勝ちを許さない」という暗黙のコンセンサスが社会の中で支配的になっており、大衆がその流れに迎合しているという形が、マスコミでもミニコミでも現れているのではないかと、そう感じている。つまり、“弱者”による逆襲である。

この場合の“弱者”とは、知識が乏しかったり、論理的思考が出来なかったり、読解力がなかったり、文字のコミュニケーションにおける意思伝達能力に欠ける「思考の弱者」を意味する。こうした“弱者”は群れることを好み、知識人や権威のありそうな人(あるいは有名人)を見つけてはよってたかって集団で攻撃する。しかし不思議なことに、初めから各個たる集団であるわけではなく、似たような能力のものが自然と寄り集まって、ひとつの勢力を形成して“強者”に立ち向かっていく。彼らの目的は、自分自身への不満や自分を認めない社会への反発、厳しい現実からの逃避・投影先を見つけること。そのターゲットとなるのがなぜか“強者”で、彼らはネットという媒体を介して普段素の自分では到底立ち向かえない“強者”を相手に奮闘する自分を自画自賛し、一種の陶酔に陥る。こうした“弱さ”を持ったものたちが寄り集まって、“強者”の投稿に集中すると「炎上」が起きる。その「炎上」を満足げに見つめて勝ち誇っているのは、他でもないこの“弱者”たち─確信犯である。

ITメディア系()は、「炎上」が起きる原因もその悪化を助長するのもすべて最初の投稿の著者の責任だと声を揃え、ご丁寧にも予防策としてのハウツーまで教える。だが一概にそうとは言い切れない。たしかに“強者”の中にはネット上のみの井の中の蛙的な“強者”もおり、「炎上」を誘い込んでいるとしか思えないような挑発的な切り口で敢えて攻撃の的となることを自ら望んでいるとしか思えないような自虐的な“強者”もいる。ときには、自らの論理矛盾に気付きながらもそれをひた隠しにしてついにその矛盾を集中攻撃されて「1人燃え上がる」強者もいる。だがこれらの“強者”は所詮、「能のないもの」の化けの皮に過ぎない。そもそも“強者”ではないのだ。

テロの世界でも、“強者”と“弱者”の関係が逆転している。構造的に、1個の強大な組織よりも弱者のセルの集まった共同体のほうが強いという結果が、911テロ以降の世界に現れ始めている。同じことがネットの世界にも言えるのではないか。

いかに強者が理論武装しようと、論理立てた隙のない持論展開をしようと、いかに“整って”いようと、強者から見れば“無秩序的”としかいいようがない個によるバラバラな、かつ共通の目的を持った攻撃に対しては無防備かつ無力だ。精密精巧な機械ほど、秩序のない攻撃に弱い。そうした統制のとれていない攻撃に対する訓練・学習が出来ていないからである。「能あるもの」が「能のないもの」の組織だっていない攻撃によってさらしものにされ、駆逐されてしまうのだ、それが「炎上」なのである。

もはや良心や良識が通用しないこの「能のないもの」たちによる攻勢に、「能あるもの」たちはどうやって立ち向かってゆけばよいのか。「力」の概念そのものが変わりつつあるなかで、旧来の常識や倫理ではこの新勢力を縛ることはできない。「能のないもの」が集団で攻撃することを、ただ“弱者”であるということで容認してしまう社会─まさにこの現象こそが、格差社会が孕む最大の弊害のあらわれかもしれない。

“弱者”に寛容な社会は、必ずしも社会の正しいあり方ではないのかもしれない。
09.11 校了