GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

主権:議会民主制は主権委譲によって成り立つのではない─Parry

It must be emphasized ...
that the powers exercised by a pariliamentary majority 
do not endow it with sovereignty ... and must be subject
to restraints imposed by a constitution whose primary 
function is to defend the sovereignty of the citizen.

議会の過半数は、主権を授与されることによって
権力を行使できるのではない。またその権力は、
市民の主権を守ることをその主な役割とする、
憲法の制約を受けなければならない。

John Parry
UEF(Union of European Federalists:欧州連邦主義者連合)
前副会長

世界連邦運動(World Federalist Movement)
機関紙 『The Federalist Debate』 XIX年 2006年2月度 第1号
"Participatory Democracy in the EU"(「EUに市民参加型の民主主義を」)より

先進・開発途上国を問わず、民主主義を標榜する市民は、間接民主制という民主主義のプロセスによって、自らの主権が選出された代表者に委譲あるいは委任されると考えているきらいがある。しかし、これが大きな間違いであることはいうまでもない。

市民が選出する国家の代表と、その選出者の市民との間のパワーバランスは、憲法によって保証され、その憲法に基づいた個別法によって詳細な手続きや制限が設けられる。これらの法によって、市民と公僕が区別され、それぞれの役割、責任や義務が定められる。

民主主義国家において、主権在民は最も根幹的な思想といえる。しかしその最も根幹的な思想は、果たして一般の市民によって正しく理解されているのだろうか。
選挙によって市民の代表者が議会に送られるとき、それは市民が代表者に対して「白紙委任状」を手渡したことを意味するわけではない。これは常識の範疇であると思われている。だが、その常識すら、実は曖昧な理解に基づいており、「白紙委任しない」という意味はどういうことか、そこまでを突き詰めては考えられていない。

選挙で投票するという行為は、市民から代表者を市民の代表者の集まりである議会に送ることを意味するに過ぎない。すなわち、主権者である市民の中からその代表が選出されているだけのことなのである。ここで、主権の「委譲」もしくは「委任」は行われていない。つまり、主権は依然として市民のもとにあり、それはまったくその本質を削がれることなく存続しているのである。むしろ、主権者たる市民の代表の集まりである議会が権力を持つのは、それが市民らによって作られたものであるという前提が成り立つからこそだ。すなわち、議会の持つ権力というものこそ、市民によって与えられるもので、それはいわば主権者の代表性によって強化・正当化されるものなのだと考えられる。

つまり、当たり前のことのようだが、主権者たる市民の承認なくして議会は成立し得ない。そこに主権者が持つ権力の介在があるからである。ただ現実には、主権者の代表が作った選挙の制度や議会法などによって、主権者介入のための手続きが複雑化され、介入しにくくなっている。だがそこで、主権者たる市民が無力であるかのような錯覚に陥ってはならないのである。