GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

映画:バベル(Babel)─2006年

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また「娯楽」に分類できない作品を観てしまった。
最近は仕事マインドになっているせいか、純粋に「娯楽」として映画を愉しむ気になれない。

映画 『バベル』のネーミングに対する日本人の捉え方というのは、結局聖書という欧米の文化が伝えた中での神話に基づいていることに気付いていない。多くの日本人が無神論者なのに、バベルの塔の神話だけは断片的に受け容れて、「そうして異なる言語と人種が生まれた」のだと考える。それが本当に旧約聖書からキリスト教の考えを敬っている人たちに対してどれほど失礼な考え方であるか、わからないんだろう。それは文化を切り刻まれることと同じなのだ。日本人にとって、日本の神道の中の一部分のみを都合よく「真理」であるかのように説いて、それで日本人をわかった気になられることと同じなのだ。はからずしも、この最悪な公式サイトがそれをさらけだしてしまっている。『バベル』という作品が訴えているのが、まさにそれなのに。

ヒトが分断されてしまったのは、それぞれのヒトがそれぞれの集団の中で独自の文化をつくり、独自の言葉を操り、独自の考えを継承してきたからだ。少ない集まりの人々が一斉にそうすれば、おのずと大きな集まりは細分化され、断片的になってゆく。しかしその少ない集まりの人々がそれぞれ国家というものをつくり、さらに武力というものによって自国の周辺を平定し出すことで、文化圏の侵略が起きる。そうした中で、共和制や連邦制が生まれ、帝国が誕生した。しかし元々異なる文化を持つ人間を寄せ集めて強引に作り上げたものなので、すぐにほころびが生じ、大きな枠組みに組み込まれる前のそれぞれの国家は、再び枠組みを外れて独立を求め、また同類を求める。それを数万年かけて繰り返してきた結果、現在世界はたった200の国と地域に集約されたのだ。国連などという枠組みなくても、国家は存続し、太古の昔から存在してきた。しかしその数が、たった200の共同体に集約されているのである。これは驚異的なことだ。

世界全体の人口が60億。この60億もの人々が、たった200の国と地域に割り振られているのである。この世界はなんてデフォルメされているのだろう。どうしてたった200の国と地域に60億の人々が安穏と暮らせるのだろう。なぜ、そう考えないのだろうか。

数千年の月日をかけて収斂・集約されてきた各国・各地域固有の文化圏の中で、そのいびつな集約がずっと保たれる、あるいはほころびが生じない、あるいはすれ違い・衝突が起きることを、なぜ当然のこととして想定できないのだろうか。それは「神」がヒトを罰したから?なんらかの力によって、ヒトが切り裂かれたから?人為的なものではない、何かによって、ヒトは分断されたから?安易過ぎるだろう。ヒトの数万年におよぶ営みがすべて否定されてしまうではないか。ヒトを分断したものは何かといえば、それはヒト固有のエゴによる産物だろう。それ以外の何によるものでもない。

(思いついたままに書いているので、ここで小休止。続きはまた)