GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

映画:GATE -A True Story- (2008年)


7月19日に封切られた史上初の核に関する長編ドキュメンタリー映画『GATE』


今年2月に偶然、試写会で見る機会に恵まれた映画『仮題:原爆の火~零時三分前~』が満を持して本日、新たに『GATE -A True Story-』と改題されて劇場公開初日を迎えた(個人的にはこの題名は気に入らないが、こうした背景があるらしい)。改めて完成版を見る機会を得たので所感を新たにしたためたい。本作は劇場公開映画ではあるが、慟哭の涙なくしては見れない、とても「娯楽」に類することのできない作品なのでこのカテゴリに分類した。

以前、本作を観たときは、仕事で10分ほど到着が遅れ最初の10分を見逃していた。やはり映画は、最初から最後まで一秒も見逃すべきでない。半年近く経ってやっと、見逃した10分からエンドクレジットが流れ終わる最後まで見ることができた。これから見る人もいるだろうから、ネタばれしないよう気をつけながら所感をしたためる(あらすじについてはトラバ先を参照してもらいたい)。

平和を体現する「行い」

この映画の中心となるのは、日本の僧侶たちの行動である。そして彼らの目的を理解し彼らの行動を支える多くの、異なる国の人たちである。そしてこの物語の中心となるのは、彼らが紡ぐ切なる想い─人々が願う心の平和と魂の救済を願う人々の切なる想いの集積である。集積された願いと想いは一つになり、60年前(撮影時は2005年)にアメリカで開かれた「破滅の輪」を閉じようとする。

核兵器というものが誕生した経緯を考えれば、それは血を血で洗う戦争の中で、戦争を優位に終結させる手段として生み出されたものであることがわかる。すなわち、圧倒的破壊力をもって敵をせん滅することを目的に、この悪魔の最終兵器は誕生した。その誕生のとき、死と破壊を呼ぶ「破滅の輪」が開かれたと、行脚を決意した僧侶たちは考えていた。

この破滅の輪を閉じない限り、輪が開かれたことによって生じたあらゆる苦しみはなくならず、救われることはない。そしてそれは、破滅の輪の直接の産物である原子爆弾を落とされた日本の人々の苦しみだけを指すのではない。その誕生に立ち会った人々、その実験場の近くに住む人々、その生産にかかわった人々、その量産にかかわった人々、そしてまたその実験にかかわった人々─すべてが、この「破滅の輪」が開かれたことによって苦しむ人々なのである。

この物語では、日本人で自身も被爆者であり、「苦しむ人々」の一員である僧侶らが、すべての「苦しむ人々」の魂を救うために、それらの人々になり代わって2500キロの旅路をその足で行脚する。この尊い行動の持つ意味はなにか。

それは核に対する「抗議」なのか。否、そうではない。
では平和を求める「活動」なのか。否、そうでもない。

しかし一つだけはっきり言える。彼らの行動は、平和を体現する行いなのである。

負の因縁を絶つ「行い」

仏法を理解していない俺の考え方が正しいのか確信はないが、破滅の輪は「因と縁」すなち因縁(原因と結果)があるからこそ「因果」として巡るらしい。この因果が巡っている間、その動力のようなものとなるのは人の「念」のようだ。

この念が、かによって、因果の巡り方が変わる。ところが、核兵器の誕生によって生じた流れはすべて「負」のもので、まさに死と破壊しかもたらしてこなかった。この流れを止める、あるいは変えなければ、「負」の念の属性は変わらない。

しかし、これを変えるのは容易ではない。そのために強い意志と信念、そしてこれを支える人々の想いが必要になる。だがこれが容易には揃うものではない。

そこで僧侶たちは、原爆投下後に保たれてきた「原爆の火」を、原爆誕生の地、トリニティ・サイトに行脚で持っていくことで、道中に人々の想いを集め、人々に支えられることで、強い意志と信念を持って破滅の輪を閉じようとする。

無論、これは狙って得られる結果ではない。行脚という彼らの行い(因)によって、初めて得られる結果(果)、すなわち「因果」なのである。

道中、僧侶たちはアメリカの人々の人情に触れ、負の流れを少しずつ変えていく。僧侶たち自身の中にも、負の念をもちこれを払拭できない人もいた。自身が被爆の地の出身であるのだから無理もない。僧侶も人の子である。しかし彼も、自らの行いとその行いに対する結果によって、「負」を「正」へと還元するに至る。まさに人々と自分の心の中に平和を体現せしめたのである。僧侶たちは平和の体現をその行いによって示したのである。

この行いの尊さに、俺は再び涙を堪え切れなかった。
たった4人しか観客がいない 劇場の中で、俺の嗚咽が響き渡った。

とにかく堪え切れなかったのだ。

公開初日、小さな東京の隅っこの映画館とはいえ、俺の観た回の動員数は全部で4人だった。

願わくば、より多くの日本人がこの映画を見ることを願う。
平和の体現とはどういうことか、探していた答えのひとつがこの映画の中にあるからだ。

再び言う。日本人として、いち人間として、これは心に刻むべき映画である。
(了)