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seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

Twitlog:読書メモ 『日本を棄てた日本人』(草思社)を読んで〔後編〕1

石戸谷滋著('91) 『日本を棄てた日本人』             [カリフォルニアの新一世](草思社)を読んで 〔後編〕第1部

昨夜、家事をひとおとり終えて再び本を読み始め、寝る前に読了した。

読み進んでみると、まだアンダーラインがあった。
どうやら学生当時も読み終わっていたようだ。

当時の青の波線に重ならないよう、黒で新たに波線を引く。'95年当時(推測)と2010年現在。感じ方にどんな差異があるのか自分でも興味深い。

後半の登場人物はかなり多い。あとがきを読むと本全体の総数がわかるが、著者は2年間に渡る作業のなか予備取材と本取材の2回に分けて渡米し、25人もの日系2世、1世、新一世の日本人と対談を重ねてきている。

後半4章からは、新一世のなかでもとくに成功を目指して奮闘した人々が登場する。前半では記述が漏れた引用も含めて、感想を振り返りたい。

著書では本名や仮名が使われているが、ここでは敢えてイニシャルのみとする方式で、90年代のアメリカで奮闘する我が同胞たちを紹介したい。


N氏(四十代前半、男性)の場合

N氏は当時四十代前半。ロスに来て10年が経っていた。
著者が初めてN氏と会ったとき、N氏は率直にこう言ったという。

「私は日本の社会からはじきだされた人間なんです。それでアメリカが私の気質にいちばん合っているような気がして、こちらに来たんです」

10年間もロスに住みながら、N氏の部屋は「ひとむかし前の貧乏学生の寝ぐらのような雰囲気」で、日常生活の最低限度のものしか置かれていない、質素な生活ぶりだった。

実はN氏は学生時代から禅に興味があり、1年間に期間を限定して禅修行をしたことすらある。実は渡米そのものも修業なのだという。


1年の修業のあと、N氏は小学校の教員になり、坊主が学校の先生になるということで話題になったそうだ。N氏は子どもたちに好かれ、人気の先生となったが、親たちには不安がられ、転勤を余儀なくされたという。その後、外地留学制度で渡米を試みるも失敗。

N氏は突如、個人で渡米することを決意する。
N氏曰く

「持ち物も増えて、堕落してしまったな、という気持ちはずっと持っていました。そういうわけで、アメリカに渡ることになったんだから、ひとつこれを修行の機会にしようか、と思うことにしたんです」


こうして、N氏は期待も、憧れも、成功への野心もないままアメリカに渡ったのであった。そういう意味では、N氏は後述する「成功者」たちとは異質の存在かもしれない。

実際、彼に関する話は前半からオーバーラップしていて、章をまたいで続けられている。N氏のような生き方が、アメリカで成功する秘訣なのだという伏線でもあるかのように。

N氏の手元にあったのは蓄えの500万と、「少なくとも5年はアメリカにいろ」と一度は怒ったN氏の父親が送ってくれた500万の合わせて1000万。「この資金をいかに長持ちさせ、アメリカに居つづけられるか」がやがてN氏のテーマとなってゆく。

当時30台半ばだったN氏はまず語学学校に通い、カレッジ、州立大学の哲学修士課程へと進学する。10年間、ひたすら勉強してきたのである。

しかしこの地道な努力が大学院で実を結ぶ。「哲学という実利とはかけ離れた分野」を専攻したおかげで、教授達のお気に入りとなり可愛がられるのである。

その後、N氏は新設された外国人奨学制度に教授達の推薦でトップ合格し、在学中に日本語の個人教授や家庭教師などをこなし、滞米7年目から蓄えが上向きに転じ、教授達の協力で永住権の認可も確定した。これは87年新移民法による恩赦に基づくものだったが、本来なら修学ビザを持つN氏には不要だった。

こうして永住権の確保が確実となったN氏は、いまもアメリカ人に日本語を教えたり、現地駐在員の子ども向けの補習校の先生などを務めて生活を維持している。

著者が「そんなに需要があるんだったら、いっそ日本語学校を作ったらどうですか?」と水を向けてみたら、こんな返事を返してきたという。

「いや、ぼくには食べているだけの収入があればいいから、いまのままで十分です。しんどい思いをして稼ごうなんて考えていませんよ」


徹底した生活哲学である。その理由は、N氏が追及するのが「心の自由」であり、彼にとってこれを追及できる場がアメリカという国であり、「そこが日本ではないから」だ。

著者は、N氏が最低限度の所持品しか持たずに暮らしていられるのは、「周囲の世界に対して自分を異邦人と規定できるからである」と分析する。

外国人であればこそ、仮に受け入れられなくても、それを無視して平静でいられるのだという。日本だったらそうはいかないという著者の指摘には、頷かずにはおれない。

O夫妻(夫K氏 四十代前半、男性)の場合


前出のN氏が自分を異邦人に留めることでアメリカの物質主義に背を向けてみせた」のに対し、次の章『サバイバル・レースのなかで』では、対称的にアメリカのこの部分に真っ向から挑んでいる人々の奮闘の様子が描かれていた。その一番バッターは、アメリカで同胞である日本人に騙されて無一文からスタートしたという人物だった。

O夫妻の夫K氏は、32の時に貿易商を営んでいる知人に誘われて渡米した。K氏はこの知人とロスで同居して四ヶ月ただ働きをさせられた上、事業投資の名目で貸したなけなしの1万ドルを踏み倒される。

その時の所持金はわずか35ドルだったという。

K氏は文字通り無一文で、異国の地で再出発を余儀なくされたのである。

その後、メキシコ系のある人物に拾われるが、また騙されそうになったところをその人物の奥さんに救われ、K氏は最後の手段として領事館を頼る。

領事は親身に対応し、帰国の決心がつかないK氏にリトル・トーキョーのサービス・センターを紹介する。おかげで月給500ドルの仕事にありついたが、それでは生活ができないので自動車修理の仕事を始める。

だがまもなく、K氏に最初のビジネス・チャンスが訪れる。日本の中古車ディーラーが大量のクラシック・カー買い付けのため渡米しているという情報を掴むのだ。

K氏は別の新一世のビジネスマンと共に、日本車逆輸出の新事業に取り組みはじめる。丁度このとき、K氏は夫人のI夫人と知り合い結婚する。

ところが、商売が軌道に乗り1万ドルの月収が見込めるとなったところで、また同胞に裏切られる。パートナー契約だったのだが一方的に解雇されてしまったのだ。

K氏は、それが利益を独り占めするためだったのか、あるいはK氏の成功を妬んでなのか、「なぜだったのかわからない」という結論を自ら下す。

そして懲りずに、今度は二世ビジネスマンと共同経営する形で同種の事業を興す。ところが、また商売が起動に乗りかける段になって、この二世にも裏切られ、会社を放り出される。その理由を、K氏はこのように語る。

「たぶん、輸出の仕事がもう完全に軌道に乗った、と思っちゃったんでしょうね。中国人や韓国人は団結心が強くて、会社が傾いたときなんかにお互い助け合うでしょう?ところが日本人は、うまくいったと思うと、すぐに足を引っ張るんですね。見通しもまだついていないうちに、出ていけ、でしょう。こっちにすればたまったもんじゃないですよ」

K氏はこれらの度重なる同胞の裏切りの教訓から、日系人への認識を改めた。曰く、二世は「ちょうど水と油をまぜてシェイクしたような人だ」と。つきあいはじめは二つが混じり合って白に溶け込むが、本当はまじっていないのだと。気が付いたら、水と油の層に完全に分離してしまっているのだと・・・。

著者はK氏の話を本に書くか悩んだ。二世全体が「表裏がある人」だというレッテルを貼りたくないからだ。著者はむしろ、二世に対する同情の気持ちを露わにする。それは、彼らが自分の意志で渡米したのではなく、またアメリカでは貧しさから抜け出さない環境に育ったという背景があるからだ。

また著者は、二世の多くは戦争中の強制収容所の生活を経験しており、その結果として「彼らの人格にある種のゆがみ、弱さが生じてしてしまったとしても、それは同情の余地のあるところではないだろうか」と、安易に彼らを「信頼の置けない連中」と断罪することをよしとしない。

この平衡感覚には安心を憶えた。

そこには、アメリカに住むすべての日系人に対する著者の愛すら感じられた。

話を元に戻そう。

K氏は共同経営事業に失敗したのち、再び自動車修理の仕事に戻るが、どうしても中古車輸出の商売が諦められず、ついに一念発起してI夫人とともに二人だけの会社を作る。度重なる同胞の裏切りを経験したK氏にとって、これは自然の帰結だった。

だが、この商売も一筋縄ではいかないものだった。

例の二世の前パートナーが競合となり、同一の販路をめぐって裁判沙汰にまで至ってしまったのである。K氏はユダヤ人の弁護士を雇い徹底的に法廷で争うことにした。「日本人の弁護士は?」と著者が尋ねると、こんな答えが返ってきた。

「弱いです。正直言って使い物になりません。日本から来た弁護士で、こちらで資格をとってる人もいますけど、こういう人は英語ができないから、結局二世に頼ることになる」

あくまで90年代初期の話である。

ここまで話したところで、I夫人とバトンタッチ。今度は女性の目からみたアメリカ移住生活の話である。

I夫人は白人との二度の離婚経験を持つ。当時で国際結婚カップルの離婚率は80%だったのだから、この経験は決して当時では珍しいことではない。「白人男性と日本人男性の違いが」話のテーマとなった。

O夫妻(妻I夫人 四十代後半、女性)の場合

I夫人は23歳の時にアメリカ軍人と結婚して渡米した。だが間もなく離婚して子どもまで奪われてしまう。二度目の結婚も白人とするが、このときも子どもは作るが離婚してしまう。ただし今回は、子どもの親権を確保する。13歳になるその子どもは、取材の最中ずっと一人でテレビを見ていたという。

著者は「白人との結婚っていうのは、やっぱり難しいんでしょうか」と核心に迫る質問をする。I夫人はこう答える。

「白人とは、どうしてもいちばん大切な部分でコミュニケートしないんですね。レディーファーストとか、表面はジェントルマンを装うけど、本当のやさしさには欠けるっていう気がするんです


ジェントルマンではあるが、その中身の部分が「空洞」だというのだ。

おそらく失礼を承知で、著者はこう食い下がる。

「日本の女の人は、結婚すると相手に頼りすぎると聞くが」と。

彼女はきっぱりとこう答えた。

「私の場合は、逆に二人とも私に頼ってきたのよ」


聞けばI夫人のこれまでの夫は、I夫人が働くほど自分は働かなくなり、しまいには完全に怠けてI夫人に頼りっきりになり、それがつらかったという。さらに、I夫人の日本的良さをまるで認めようとせず、日本料理も認めなかったという。その点、日本男児は女には不器用だが、「本当のやさしさ」がある、と。

夫のK氏と出会い結婚したI夫人は、K氏を通じて日本の男を見直すようになったという。それはK氏がまだ輸出事業の仕事をしていると思っていた頃、油まみれになって帰宅する夫を黙って見守っていたある日、K氏から仕事をクビになったことを打ち明けられるのだが、その時にK氏が「この家は手放さないぞ」と強い決意を表明した。

新婚早々で高収入を見込んだ仕事を辞めたことを話せない、見栄っ張りでやせ我慢する日本男児らしいK氏の男気に彼女は感心し、「この人なら自分を幸せにしてくれる」と思ったそうだ。アメリカ人だったら「代わりに働いてくれ」というのがオチだろうと思ったからだ。

 I夫人との短い昼食はここで終わった。

次は筋金入りのビジネスウーマンの話。25年の歳月を費やして実業家としての地位を確立したR女史の話。旅行会社を経営する社長で、夫は建設会社に務めてるという。まだ四十そこそこの若々しい女性で、子どももまだ6歳だという。R女史は、日本とアメリカのビジネスの在り方の違いについて語った。

後編2につづく


(実はリアルタイムでツイート進行中