GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

映画:王と鳥(Le Roi et L'Oiseau)─1980年

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今年4月に発売されたフランスのアニメ映画『王と鳥』のレンタルDVDをやっと観ることができた(←まずは、その美しいメインテーマの調べを堪能してほしい)。ジブリ高畑勲宮崎駿はこの作品の監督ポール・グリモーPaul Grimault)に大きな影響を受けているらしい。ジブリの全面バックアップを受けて、GW中には劇場公開もされていたらしい。あいにくその頃は、ニューヨーク、ジャカルタと仕事で出張だった。けれどもDVDの特典映像で、劇場公開の際(なぜか『ゲド戦記』の公開日)の高畑・「爆笑問題」太田対談)が含まれていたから、当時の状況が十分伝わってきた。

いまの時代、アニメーションが社会性のあるメッセージを持つことは稀ではない。日本でも、古くは最古のアニメ映画といわれる『百蛇伝』にもそうしたメッセージ性はあったと思う。あれは60年代の作品だったというではないか。実は子どもの頃、俺も観たことがある。ハッキリ言って、中国映画と見紛えた。それでも、権威に対するサタイヤ(風刺)としてのメッセージは、童心ながらも感じることができた。手塚治の作品群も、古くは最近リメイクされた『メトロポリス』から、『火の鳥』まで、社会どころが人類の文明そのものに対する批判と警鐘のメッセージが強く残されていたではないか。なぜ高畑勲「アニメーションが思想や社会を語ることのできる可能性を感じた」と当時に思ったのか、実はこの『王と鳥』には前身となる作品があるらしい。『やぶにらみの暴君』という作品らしいが、1955年に公開されたというこの作品は観たことがない。

批評はもう十分だ。感想に移ろう。

なるほど。ジブリの原点がそこかしこに散りばめられている。とくに、文頭に紹介したテーマが流れる画面のロボットが首をかしげているシーン、このシーンを見てまず浮かんだのが、『もののけ姫』のコダマ(木霊)だ。あのひょっとこ口をポカーンとあけたすっとぼけた表情(カオ)。もしかして、ジブリ作品にはところどころに、ポール・グリモー監督へのオマージュが込められているのではないか。これから、グリモー監督の作品(たとえば、本作品と劇場で同時公開されたレアもの『避雷針泥棒』(第二日本テレビで配信中)などを見てから、各ジブリ作品にその痕跡を辿るというのも、新しい愉しい観方かもしれない。

作品のジャケットには、えらく大仰なことが書かれていた。レンタルなので、もう手元にそのコピーはないが、とにかく仰々しかった。『実はそれは、王、国民も含めた完全な世界統治システムの姿であった』みたいなことが書いてあった記憶がある。だが、観ているにつれ、そのコピーがあながち誇張でもないことに気がついた。たしかにこの作品は、社会の統治システムへの疑問を投げかけており、社会の底辺が支える絶対統治という、現代格差社会の皮肉としても通ずる作品だ。また、フランス革命を成功させて王政を打倒し、近代民主主義の基礎を作り上げたフランス人監督の発想だからこそ、「絶対統治」「暴君」に対する絶対的な否定という強い意思が、そこかしこに感じられる。

ジブリの原点というより、社会派アニメの原点と考えると、現在のジブリが、社会よりも人間のありようを描き出すのに対し、この作品も含めた海外の作品は、社会というシステムのありようとそこに生きる人間の不自然さを常に描いているように思う。でもそれがジブリ作品のよさであり、多くの日本人に親しまれる理由でもあるのだろう。一種シュールともいえる、フランスや本ブログでも紹介したオランダの作品は、日本人にはアートとしては受け容れられても、心に響くヒューマンな作品には映らないかもしれない。

俺はどうだったか?両方(アートでありヒューマンな作品)であると感じた。