言霊:夢を追える場所
銃に勝る手段
(字幕訳)
でも私は国連職員よ マシンガンを振り回す代わりに 国連で働いている 国連と その理念を信じてるの 言葉の力と献身だけが この世をよくすると信じて 効果は銃より遅いけど (GT訳) だから私はここを選んだの マシンガンを振り回すよりも 国連で働くことを 国連とその理念を信じているから たとえ銃より時間がかかっても 対話と寛容が世界を変えると信じて |
That's not what I'm here. Working at the UN, instead of standing on a road somewhere with a machine-gun.
l believe in this place. I believe in what it tries to accomplish.
Just a belief that words and compassion are the better way. Even if it's slower than a gun.
映画『ザ・インタープリター』より
3年前にこの映画が公開されたときも、俺は劇場で映画を観ながら、その場で携帯にこの言霊のメモをとり、別のブログに掲載した。
しかし、その記録はもうない。
3年後のいま、俺はその時とは違う心持ちで、その時心の奥深くで感じたことを思い起こすことができる。
いまこそ、その思いを綴ろう。
3年前と今では、世界の情勢がまるで違う。
3年前と今では、俺の立場がまるで違う。
3年前と今では、世界の価値観がまるで違う。
3年前と今では、俺の立場がまるで違う。
3年前と今では、世界の価値観がまるで違う。
だが3年前と今でも、俺の考え方は同じだ。
だから、3年前の思いをこうして綴ることができる。
対話による解決への信頼
在学時代から、俺は「力」ではなく「対話」による紛争の解決が可能だと信じてきた。どんなにナイーヴな考え方であっても、死者を出すことなく解決策を見いだすという人類の知恵は、どんな「力」にも勝ると信じてきたからだ。国際社会の知恵を紡いで懸命に考え出された解決策は、たとえすべての解決にはつながらなくても、より多くの破壊や死を防ぎ、将来の紛争勃発の予防になる。俺はそう信じてきたし、いまもその考えは変わらない。
今から6年前、国際社会は個人による重大な国際犯罪を裁き、防ぐための国際刑事裁判システム(国際刑事裁判所:ICC)誕生の生き証人となった。
3年前、この映画にも登場するそのシステムは、まだ黎明期にあった。ちょうど100の国が賛同していたこのシステムは、まだ人類にとって普遍的なものではなかった。さらに3年経った今でも、残念ながらそれは変わらない。システムの確立には時間がかかり、周辺の状況がそれを容易にはさせない。新しいシステムの確立には、常に試練が伴い、これを乗り越えて初めてシステムとしての普遍性が認められるようになる。まだ、このシステムはそのステージに達していない。
グローバル・ガバナンスの一翼を担う国際刑事裁判システム
国際刑事裁判システムは、「力」による暴力が起きた後に、犯罪を裁きその再発を予防するために存在する。それは俺が考える「対話による解決」を目指すためのシステムではない。法治の観点から、国際秩序を維持するための一つの機構(メカニズム)である。だが、「暴力」という力が、法の担保を得ない1つの不当なメカニズムなのだとしたら、「司法」という力は、法の担保を得た1つの正当なメカニズムといえるのではないか。人類社会が作り上げた法治のシステム、これは万国共通の価値観といってもいい。どんな独裁国家でも、独裁者は法を作り、自らが法の執行者となって法を守る。たとえそれがどんなに非民主的で、専制的で、不当な統治であっても、その独裁者は自らが作った法によって縛られ、法のもとでのみ君臨できる。民主主義社会における法治と、それ以外の社会における法治は、その形は違っても、法の支配を甘受することを是とすることに代わりはない。ゆえに、法治のシステムとは万国共通の普遍的価値といえる。
このことをベースに、俺は法治のシステムを「対話による解決」を促進するための1つのインフラだと捉えている。法の執行には、警察のような暴力的機能を持つ組織が必要だと考えられることが多々あるが、それ以前に、法治が確立している必要がある。法治の確立とは、警察力の確立ではない。法治が1つのインフラとして成立しているかどうかが、その指標なのである。
国際刑事裁判システムは、現在固有の警察力を持たない。国際刑事裁判所は国際条約により成り立っており、その実務は加盟国の協力によって成り立つ。法を執行するにあたっても加盟国の協力が不可欠で、あらゆる側面で加盟国の友好な意思なしでは、存続しえないシステムとなっている。それがこのシステムの弱点であり、強みでもある。
加盟国が協力を余儀なくされるくらい、法治の概念が普遍化されれば、国際条約機構としての元来の弱点は、むしろ強みにとって代わられる。つまり、加盟国を拘束する価値観が強くなるほど、加盟国はその意思や思惑にかかわらず、機構に協力をせざるを得なくなる。国際社会の一員としての倫理的責任感(moral responsibility)がなせる業だ。
現在、国際刑事裁判所はこの国際的な倫理責任により、国際社会のインフラとしてその地位を確立しつつある。加盟国はシステムを信任し、協力を呼びかけ、加盟を呼びかけ、自らの責任を果たすことに誇りすら感じるようになっている。ここまで来れば、後はインフラとしてのシステムを信任して「対話による解決」に重点を置いた方法にシフトしていけばよい。バックに国際刑事裁判システムが控えていれば、力の行使によるその場その場の正義など、力を失う。そして、正当な力の行使が背景にあることにより、力ではなく対話で解決するという機運が高まることに希望を見いだす。
これらの問題には、従来の「力」の支配がまだ必要である事実は否めない。金品目的だけでなく政治的なテロ行為として暴力や犯罪行為に依拠する集団に対して、「対話による解決」は望み薄であるし、ある特定の国家が実力行使により領土の接収を行ったとしても、様々な力関係によりこれを阻止することも、批難することもできないというジレンマは依然として存在する。つまり、この世界には未だ、法治が確立されてない領域がある。だが、それはそれでいい。
力の支配が及ばないところには法の支配を、法の支配が及ばないところには力の支配を、これを臨機応変に適用してこそ、はじめて柔軟でオールラウンドな国際統治(グローバル・ガバナンス:地球的規模の協働管理)が可能となる。だが、国際社会は未だ、この二つの方法の平和的共存(並立)を認めるステージに辿り着いていない。世論は「力」か「対話」かに二分され、その二つの解決策の間で決着がつけられてしまう。結局、二元論化された正義の中では、いずれかが「善」でいずれかが「悪」となってしまう。これでは並立は実現しない。
力と法の支配の並立こそが真の解決への糸口か
俺は力の信奉者ではないが、盲目的に対話を求めているわけでもない。要はある目的があるときに、その目的を達成するための手段・手法として、何が有効かの広いオプションを持つことが肝要ではないか、ということなのである。この目的とは平和のことである。だから俺は、「対話による解決」こそ最善の手段・手法であると信じつつも、「力による解決」がまったく不要であるという考えには至らない。国内に視点を変えても、司法の存立には警察力という「力による解決」の介在が不可欠であるからだ。この法治のシステムを、国際社会にも適用するならば、やはり国際社会においても、正当な力の行使は必要であるという認識に至るではないか。
問題は、この「正当な力の行使」を行う主体がなんであるかであるが、俺はある1つの構想に目を向けながらも、より完全な警察力を実現する方法を模索し続けている。「銃に勝る手段はないか」常にそれを考えている。そして現存するものの中から、銃と対話の理想的な混合率、フォーミュラを探しだそうとしている。
そして、それを実現するための俺の場所を探し続けている。
だがそれは、俺にとっては現在(いま)の国連ではないかもしれない。
だがそれは、俺にとっては現在(いま)の国連ではないかもしれない。
(了)