GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

反米:これからの日本と今までの日本の意識(今まで編)

「第二放送局」をWeb上に立ち上げるなど、なかなか意気盛んな日テレが最近、政治討論番組に力を入れている。今日、再放送された番組に、爆笑問題の太田が総理大臣に扮して仮想の国会でマニフェストを提示し、その賛否を投票で決めるという番組があった。テーマ(マニフェスト)は様々で、「野党議員の給料をゼロにする」だの、アメリカとの国交を1年断絶する」だの、「株取引は還暦からに限定する」などと幅広い。

実はそれぞれのテーマは、爆笑問題の太田という人気も人望もある“スポークスマン”を介して日テレが政治的意見を発しているという印象がぬぐえない。だが、その内容は、そんな局の思惑などどうでもいくらい含蓄の深い、説得力のあるものだった。太田という優秀なスポークスマンあってのことかもしれない。太田の熱弁は、俺にも「何かを発信したい」という気持ちを呼び起こした。

今までの日本の意識

番組で太田“総理”が提示したマニフェストには、いずれも共通した傾向があった。それは「反米」。しかし日テレのスポークスマン・太田の「反米」のスタンスは納得のいくのものであり、実は長年(911以来)「反米」とレッテルを貼られてきた俺には十分共感できるものだった。実際、俺は「反米」ではないのだが、とかく誤解されやすい。だがなぜ誤解されるかというと、俺は太田のように「完全」なスキのない自己主張というものが出来ていなかったからなのだと、今日の番組を見ていて思った。それは、アメリカを自分の思い描いていたアメリカ像に当てはめて、アメリカを糾弾していたということだ。つまりはアメリカへの失望が、アメリカを糾弾するエネルギーへと転換されていただけだった。これでは、根拠のあるアメリカ批判とはいえず、「反米」と揶揄されてもしょうがない。

自分が容易に「反米」と位置づけられてしまうことを反省するとともに、日本人の多くが、潜在的アメリカに依存しつつもなぜ「反米」でいるのか、その心理を考えてみた。たどり着いた結論は同じだった。多くの「反米」日本人は、理想のアメリカ像を勝手に思い描いた上で、その理想と現実との食い違いに幻滅して、アメリカ批判に走っている。つまり、合理的な帰結ではなく感情論なのである。理想と現実とのギャップに幻滅して、批判の矛先をその理想の体現者に向けている。これを何と呼ぶか―「エゴ」の押しつけである。そしてこれは、いわゆる成熟した「大人」の思考ではない。

親が勝手に子供に理想の姿を求めるのと同じように、子供も勝手に理想の親像を求める。いずれも、本質的に「大人の思考」ではない。そして、これが、今までの日本の思考だったと思う。簡単に言えば、現実を認めようとしない「駄々っ子」の思考である。ここで生粋の反米論者は、

「いや、違う。駄々っ子なのはむしろアメリカであり、国際ルールを守らずに好き勝手やっているのは当のアメリカなのである」

と反論するかもしれない。しかし、その発想そのものが、幼いのだ。

なんでも「国際」という大きなくくりで考えれば、他の国のしていることを批判する基準になるという考え方は実は幼い。なぜなら、「国際関係」は妥協の産物であり、さまざまな国際慣習やプロトコルは、国際的コンセンサス(賛意)を得つつも、それは「常識」として成立しているわけではなく、各国の「良識」のバランスによりかろうじて成立しているひじょうに儚いものであるという現実認識が欠如しているからである。だからこそ、国際社会はこうした「儚い良識のバランス」をより形ある、確固たるものとしようと、国際法による明文化をこれまで図ってきた。それは地道な努力であり、「良識」ではなく「常識」と法治の概念の徹底を目指す国際ルール作りは、それこそ絶妙な儚いバランスのもとでコツコツと行われてきたことなのである。それを安易に「国際ルールを守らずに」と簡単に言い切ってしまう思考は、幼いという以前に思考停止しているのではないかと思われても仕方ないと思う。なぜなら、十分に諸処の事項を検討して出された結論ではないからだ。

国際社会に対する日本人の盲信にも似たこの幼い思考は、「国連神話」という具体的な形に表れている。それは、国連が真に民主的なフォーラムであり、決定力と実行力があり、国連の定めることが絶対であることを盲信する日本人は、国連の無力さが露呈されたイラク戦争後もまだまだいるということ。なぜこうまで「理想の限界」というものを認めず、「あるべき姿」と「そこにある本当の姿」との間で妥協せずに、「理想」だけを盲目的に追い続けられるのだろうか。理想を追うことは妥協しないことだから?

違うだろう?

理想を追うときこそ、固持とすることと妥協することの間でバランスをとらなきゃ何も立ち行かないのではないのか?まして、それが自分自身(自国)ではなく他者(他国、機関)のことになればなおさら。なんで他者に対してのみそんなに厳格に期待することができるのか。なぜそこには妥協がないのか?


これが、今ままでの日本人の意識に共通していたものだと思う。アメリカに対しても同じだ。

いまの反米意識の根底には、自分の理想通りではないアメリカに対する不満。一種の「アメリカ神話」の崩壊のようなものがあるのだと思う。しかし国連同様、アメリカにも限界があり、歴史的に幼い国で、まだまだその意識の上では発展途上な面があるという側面を、反米論者はまったく無視してしまっているきらいがあるのではないか。これまでのアメリカの功績や力、可能性や潜在力にばかり目を奪われて、アメリカにも欠落があるという、ごく当たり前のことを認められないでいるのではないか。

これが、今までの日本人の意識だったと思う。

だがこうした独りよがりな意識は、徐々に変わりつつあるのかもしれない。


(「これから編」に続く)