GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

映画:君のためなら千回でも(2007年)

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またもや「娯楽」と位置づけてよいのか悩む作品なのだが、海外出張(オランダ)の中休み中に見た作品なので、まあ「娯楽」といっても差し支えないだろう。たまたま、宿泊先のホステルで上映されたもので、俺は知り合ったばかりの若いカナダ人フリーターたちとビールを飲み交わしながら、でも厳正な面持ちで、この作品を観賞した。

この映画、原題「The Kite Runner」は、911以降アフガン問題に常に関心を持ち続けてきた俺としては、絶対観たい作品だった。にも関わらず、日本で劇場公開されても観に行かず、日本でDVDが発売されてもレンタルすらしなかった。前情報があまりにも多く、お涙頂戴ものの陳腐な反戦プロパガンダ映画だと、勝手に思いこんでいたからだ。

紛争地で弱者の視点で映画を作る場合、弱者の悲壮な現実ばかりがデフォルメ的にクローズアップされて、実際は現実との乖離が生じてしまうことが往々にしてある。けれども観客はそのデフォルメされたわかりやすい悲壮さに騙され、現実をわかった気になって共感の涙を流す。それだけでカタルシスとなり、戦争の経験までも共有したかのような疑似感覚に陥る。俺はその一員になるのは御免だった。デフォルメされてない戦争の真実を知りたかった。戦争開始から7年を経過した今なら知れると思っていたからだ。

しかし俺の考えはまったく間違っていた。
『君のためなら千回でも』はドキュメンタリーでも反戦映画でもなく、まぎれもないヒューマンドラマだった。

ネタバレは極力避けたいが、この映画を語るのに内容に触れないことは難しいので、十分内容にも触れながら感想を述べることにする。

忘れる少年と忘れない少年

とにかくこの映画で思い知らされるのは、人の業(カルマ)の深さである。

主人公のアミールは、1970年代のアフガニスタンで、少年時代にある嘘をついて自分の親友であるハザラ族の召使いの子ハッサンを陥れてしまう。ハッサンとその家族にしてしまった仕打ちをずっと悔いながら、裕福なパシュトゥン人のアミールは父に連れられ、その後の二つの戦争を新天地アメリカでやり過ごそうとする。

親友を戦地に残したまま。

アミールはハッサンのことも自分の犯した罪も忘れ新天地でアフガン人と結婚し幸せを掴もうとする。だがそんな矢先、忘れ去られようとしていた親友の訃報が意外な方法で彼のもとに届けられる。それは、死を目前にしたある親類の最後の厚意だった。アミールが過去に犯した罪で後悔に苛まれ、心の平穏を手に入られないでいることを察したからだ。

この厚意に応え、アミールは償いの旅に出るのだが、長年のアメリカでの生活ですっかり平和ボケしてしまったアミールにとっては、タリバン政権下の故郷アフガンの地はもはや別世界だった。厳格なシャーリア法の世界で、タリバンは力による支配を浸透させており、アミールがいた頃のアフガンの面影はまったくなくなっていた。そんな無法と力の正義が跋扈する世界で、アミールは叔父に頼まれてかつての親友の忘れ形見を守るために闘う決意をする。

人生で初めて、逃げずに闘うことを選んだ瞬間だった。

アミールがそこで思い知らされるのは、ある衝撃的な事実と、アミールの仕打ちを、ハッサンが忘れていたことだった。20年もの間、アミールが忘れられず悩み続けてきたことを、ハッサンは忘れていた。ハッサンはずっと、アミールを理解し、赦していたのだった。アミールはそのことを知り、己の業の深さを思い知り断腸の涙を流す。

過去の罪は贖罪で贖われるのか

アミールとハッサンの友情の絆は、互いの身分を越えた確固たるもののはずだった。二人は凧揚げレースの常勝組で、いつも見事なコンビプレイで周りを沸かせていた。ハッサンの凧糸使いはまさに職人技で、二人の連携はいつも息がぴったり。アミールが勝つと、ハッサンはいつも喜んで君のためなら千回でもと、落ちた敵の凧を拾いに行った。ハッサンは、この敵の凧を拾うために、 身を挺していじめっ子たちにも立ち向かう(英語動画)。しかしそんなハッサンの純真さを、アミールは苦手に思い、あろうことかある日、ハッサンを裏切ってしまう。

この裏切りを、アミールは生涯後悔することになる。まして、相手がとうの昔にそれを赦していてくれたとすれば尚更、相手に「ごめん」の一言も言えないまま、生涯の親友を喪ってしまうのだから。アミールはこの罪を、ハッサンの忘れ形見を守ることで贖おうとする。そしてその忘れ形見に初めて凧揚げを教えるとき、君のためなら千回でもという、かつての親友にはどうしても言えなかったことを伝える。しかしそれで、アミールの罪は贖われたのだろうか。

俺は疑問に思った。

アフガンにおいてハザラ族という下級民族に生まれてしまったハッサンの宿命はいかんともし難い。だが彼らは誇り高い施しを求めない民族でもあった。だからこそ、ハッサンはアミールにある濡れ衣を着せられてもそれを「僕がやりました」といい、ハッサンの父は主人に「それでも去る必要はない」と言われても、「ここに留まるわけにはいかない」とキッパリ言い切ったのである。アミールはこの時点で、ハッサン親子に救われていた。それでも、そのことを認めるのに20年の歳月とハッサンの死、そして不遇な忘れ形見の存在が必要だったのである。

アミールは一体どれだけ業の深い人間なのだろう。

しかしどんなに深い業を背負った人間でも、人間の深い懐により赦されることができる。ただし、それには決死の覚悟と行動が必要である―そう、この映画は説いているように思える。人間というものの底知れぬ懐の深さを見た気がした。憎しみや懲罰が必ずしも正義ではなく、また人の営みは正義というものを越えたところにあり、そこに公平さや公正さは存在しないが、人間らしさがそれらの欠落を包み込むことが、わかった気がした。

人の業の深さよりも、その業をも包み込む人の懐の大きさに人の懐と知恵の深さを感じ入った。
この深い情を持てるからこそ、人間はすばらしいのだろう。
(了)