GivingTreeの雑記帳 [はてな版]

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

Twitlog:二十七の呟き~140x27の呟き~(2010.03.17)

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8年目の「原点回帰の日」を記念して

プロローグ
以上、個人の集めた小沢一郎語録からのほんの一部の抜粋でした。自分なりの語録メモのつもりでした。 連続ツイート失礼致しました。『小沢一郎語録 ―雑誌編― (*長文)』(日々坦々)より

(1)私は全ての政治理念について小沢さんを支持するものではありません。しかし支持できるところを多く持つ希代の政治家であるとは思っており、昔から尊敬しています。彼の姿勢が変わらないように、私もその基本姿勢が変わらないだけです。
(2)立場上、私のような末端の人間に党の幹事長に就く人間を批判することは容易ではありません。これはどのような組織に属する人間でも自分の経験として分かることでしょう。保身に走っていると思われても仕方ない。しかし私も勤め人。仕事には生活がかかっています。そこは割引いてほしい。
(3)何を言いたいのか、よくわからなくなってきました。実は今日は、私がこの道に入るきっかけを下さった、あるネットで知り合った友人の13回忌に当たります。私にとって、彼を亡くして以来「原点回帰の日」だったこの日に、またも訃報が私を襲いました。近親者が亡くなったのです。
(4)あれ何を勘違いしているんだろう。今年はまだ2010年。彼が亡くなって8年です。ちょっと小休止して続き書きます。
(5)8年前私が彼の訃報を知ったのは、ある大きな転機の直前でした。しかも、とても大切な人なのに、3日間も私が彼が亡くなっていたことに気付かなかったのです。大きな転機を前にして、私は「前」に進むことばかり考えて後ろを振り返らなかったのです。そこに歩を進めてくれたのは、他でもない彼なのに。
(6)あ・・・日にちが変わってしまった。日にちが変わるまえに、彼のことを呟けなかった。
(7)でも呟き続けよう。でなきゃ俺にとっての今日が終わらない。
(8)亡くなった近親者は、私の大好きな義理の姉のお母さんでした。お姉さんは最近やっと家族の一員になってくれて、待ち望んだ披露宴も最近やったばかりでした。その全てを見届けて満足したかのように、彼女のお母さんは逝ってしまわれました。そのお母さんが亡くなった日も、一昨日だというのです。
(9)彼と、義姉のお母さんが亡くなった日の符合に宿命を感じずにはおれませんでした。そしていずれの間も、私は大きな転機を迎えており、仕事に理想に邁進している瞬間だったのです。このままでいいのか、さすがに悩みます。そんなときに、今日ふぁぼっておいた小沢一郎語録集を読み始めたのです。
(10)いま私は再選を控える議員を、選挙の経験の全くない自分なりにどうサポートしていけるか。それに総てを注ぎ込む決意で日々を過ごしています。試行錯誤する中で、Twitterで得た縁もありようやく自分なりのビジョンが見えてきました。これが、愉しいのです。仕事と理想が直結していることが。
(11)私が私の理想を体現するためには、私は議員に勝って貰って、あともう6年。一緒に政策のお手伝いをさせて頂く必要があると思っています。生活も勿論かかっている。けれども一番大事なのは、私が10年以上も心血を注いできた、多くの方に見守れてきたことを止めてはならないということなのです。
(12)そして多くの方に見守られながら、私は人として、本当にその方たちに背を向けないでやってこれたのかどうか、この「原点回帰」の日に不安になり、振り返るのです。そして、やはり彼のことを、思いだしてしまうのです。それが良いことなのか悪いことなのか、8年経ってもわかりません。
(13)いまからちょうど3年前のこの日、まだ議員秘書の職に就いていないとき、私はプライベートブログを立ち上げ、その最初の記事を彼への追悼の詩としました。このブログのモットーは、「日本語で何でも思いついたことをその時その瞬間に書き留めて」みること。
(14)このゲストブックの説明にあるように、私はその時思いついたことの言霊といういのちを紡ぐために、このブログを始めました。いつしかその思いついた言葉は、こうしてTwitterで呟かれるようになりました。逆にいえば、言葉がまとまらなくなってしまった。
(15)このブログを作ってから1年くらい経った頃には、もう現職に就いていました。そして丁度、テロ特措法の更新論議が盛んになって来た頃に、自分の中にあるビジョンが芽生えたのでそれを思いつくまま、このように書き残しました。
(16)私にとっては、これがそのとき自らが発した言霊であり、芯となりました。小沢一郎という偉大な政治家が持っている正に骨太の芯。これに少しでも、わずかながらでも近づけたかなと感じたのが去年、アフガン東京会議を遂に主催できた時でした。
(17)この頃私は、「思いついた事」は引き続きプライベートブログに、「議員秘書になる前から活動してきた事」については運動ブログに、そして「犬塚議員の政策に関わる広報」は、政策ブログにUPするようにしていて、ご覧のように記事が分散されるようになりました。その中で唯一全部ブログに掲載したのが
(18)先程 @cnvvlty氏に参照した長編コラム『日本の採るべき道は二者択一ではない』でした。これは2007年の10月にPブログに書き始めたもので、実は運動ブログでは未だにファンのみ閲覧可能となっています。
(19)それを初めて完成(それでも"未完ですが)させ、公開したのが同年の12月でした。2ヵ月をかけた大作であり、私はその実現に向けた条件整備に総てを注いできました。しかしこの構想を素案とした民主党のテロ根絶法は翌年1月、衆議院で否決されてしまいます。
(20)(すみません、何か色んなところに跳ばしてしまって…いつかまとめた方がいいでしょうかね。この分散ぶりは、当時の私の立場の難しさを見事に表してるかもしれません)
(21)否決され、党の中でも一度は死んだと思われた『抗争停止合意に基づく平和構築支援』という日本の新たな外交政策の在り方を提言した「テロ根絶」法案 。でもこれだけ心血を注いだんです 。諦めきれませんでした。(※この時、たまりかねた犬塚さんも大作の独自提言を発表)
(22)そこで「法案でなくてもいい。日本の外交方針を変えさえすればいい」と、犬塚さんと私は開き直り、アフガン東京会議の開催に向けた道を模索しはじめます。国内では、低コスト高パフォーマンスの給油支援に比べたら「何もしない法律」と国会で吐き捨てられた私達の構想は2年後の11月、実を結びます。
(23)そして今年、和解と撤退のロードマップを模索するロンドン会議が開かれ、東京アフガン会議に参加した各国はその手応えとモメンタムを生かして、米オバマ大統領の新アフガン政策(18ヵ月電撃撤退)の後押しをする決意をします。これに、日本の新政権も新アフガン政策で参画することになりました。
(24)私の経験では外交政策って、こうして作られてゆくものなのです。政策というものが、生き物であり、人の作ったものであり、人の情熱が込められているものであり、人を動かすものなのです。だから、政策を作る人間は、柔軟ではあってもブレてはならない。それがその政策の信頼性と密接に関わるからです。
(25)小沢一郎という政治家の芯は揺るぎませんでした。私の中にも、知らず知らず、揺るがない芯ができていました。小沢さんの国家観のうち、私が共有する(できる)のは、外交に係わるごくわずかな部分かもしれません。でも何があってもそれはブレない。ブレようがないのです。抱えてきたものがあるのです。
(26)私自身、政治家になりたいのかどうか、それは今はよくわかりません。いま分かっているのは、私の理想・理念を共有し師事できる素晴らしい政治家と巡り会ったことを最大限に生かし、理想実現の一助としていきたいこと。アフガンに続き、普天間核廃絶等、やること(やりたいこと)はまだ沢山あります。
(27)日にちは変わってしまったが私がこの「原点回帰の日」に言えることは、これまで自分が目指し為し得てきたことを糧に、そして小沢一郎のような偉大な政治家のようにブレない芯を持ち続け、且つ変わるべき時には自分も変わるという決意を持ち、自分の理想と政策に取み組み続けること。ご精読感謝致します。
2010.03.17「原点回帰の日」22:30~1:30位の間に呟いた内容

エピローグ※これは呟きではない。


(了)

※写真は、ネット上で知り合った某友人に頂いた彼の撮影した写真。私のデスクトップを飾っています。
※03.18 補足情報として追加しました。